降誕節第9主日礼拝説教

2022年2月20日

マルコによる福音書 2:1-12

「執り成す友」

イエスさまはガリラヤ湖のほとりを巡り歩きつつ、神の国を説き始められました。シモン・ペトロとアンデレの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟を召し出されると、カファルナウムの町においでになりました。安息日に会堂でなさった力ある教えは、それを聞く人々を非常に驚かせました。その後、汚れた霊に取りつかれた男を癒されると、これを見た人々はイエスさまが仰ったこと、なさったことをガリラヤ地方の隅々にまで伝えました。

さらに、イエスさまはカファルナウムを出発なさると、人里離れたところにまで足を運び、教えを宣べ伝え、癒しの御業を行われました。

イエスさまご自身が方々で教えを説かれる。それに加えて、イエスさまのなさったこと、仰ったことを見たり聞いたりした人が、その内容を方々で伝える。このようにして、イエスさまの周りに人々が集まるようになりました。

そして今日、イエスさまは再びカファルナウムの町に来られました。すると、たちまち多くの人がイエスさまの居られる家に集まって、一杯になってしまいました。これらの人々に、イエスさまは御言葉を語られます。

この時集まった人々の中に、4人の男たちが居ました。彼らは中風、つまり体に麻痺がある人を寝床に乗せて連れて来ていました。イエスさまが方々でなさった癒しの御業の噂を聞き、なんとかこの人にも奇跡を行っていただきたいと願ったのでしょう。ところが、あまりにも人が多くてイエスさまに会うどころか、建物に入ることすらできません。そこで彼らは建物の屋根に登り、屋根をはがして、そこから寝床を釣り下ろしてイエスさまの御前に病人を下ろしました。

私たちの感覚からすると、これはとんでもない横紙破りだと思います。しかし、イエスさまはこの4人の信仰を良しとされ、中風の人の罪が赦されることを宣言なさいました。

福音書の他の箇所にも、その人の信仰の故に癒しの御業を行われる、その人の信仰の故に罪を赦されるということをイエスさまはなさいます。例えば、イエスさまの御衣の裾にそっと触れた女性などはその代表例でしょう。あるいは、近付くことが禁じられている、それは知っているけれども赦していただきたくて、癒していただきたくて御前に立った人を赦される、癒されると言う物語は、他にもいくつかあります。重い皮膚病を患っている人は、その病気にかかっていない人に近付くが禁じられていましたが、その禁を犯してイエスさまに近付いた人を主は癒されました。

今日読まれたこの箇所の特徴は、癒された人自身の信仰の故にではなく、連れてきた人の信仰の故に、主が罪を赦されたという点にあります。

プロテスタント教会には、個々の信仰者と神さまとの直接的な関係を重視するという傾向があります。この立場からすると、なぜこの人が赦されたのかは理解しがたいと思います。

ここで見られるのは、共同体としての信仰です。自分たちの身近に苦しんでいる人が居る。この人のことを何とか救いたい。そのように願う気持ちを、とりわけ「イエスさまならこの人を救えるに違いない」と信じる気持ちをイエスさまは良しとなさるのです。

この4人は苦しむ人を放っておけなかった。そこで彼をイエスさまの御前に伴った、イエスさまに紹介しようとした、イエスさまとの関係を執り成そうとした。それは、イエスさまならばこの人を救って下さると信じたからです。4人の信仰の故に、主は中風の男の罪を赦されました。イエスさまとの間を執り成したいと願う4人の気持ちに応えて、イエスさまは中風の人と神さまとの関係を修復してくださいました。この5人は信仰共同体となりました。

新型コロナウィルスによる感染症が流行し始めて早2年が経過しました。多くの教会が礼拝の守り方について悩みました。この問題は、教会の在りようについての重大な問いでもあります。また、この問題はコロナが終息した後の教会の在りようについても示唆を与えています。礼拝に集えなくなった時、信仰者はどうすれば良いのか。教会に来られなくなった時、私たちはどうすれば良いのか。そもそも教会とは何なのかという問いへの答えが求められています。

私たちが日ごろ告白している使徒信条では、「聖なる公同の教会を信ず」という文言があります。つまり、教会は聖なるものであって、公同の存在であると私たちは認識しているわけです。

「聖なる」とは、いわゆる行いの清さや正しさ、尊さを意味しているわけではありません。私たちの信仰における「聖」とは、神さまによって取り分けられるという意味です。これを人に当てはめるならば、召し出された、つまり招かれた人々という意味となるでしょう。場所に当てはめるならば、「特にそのために用いると設定した場所」となります。時間にも当てはめることができます。「今は神さまの御言葉を聞き、共に祈る時間」として取り分けたならば、それは聖なる礼拝の時間となるのです。

そして、「公同の」とは「普遍の」という意味です。「世界中、どこに居たとしても、神さまの招きに答えて集まった人々の群れは教会だ」という意味です。

私たちは「安息日を覚え、これを聖とせよ」との戒めに従って、主日毎の礼拝を守っているわけですが、それをイコール教会に来るという意味で理解すると、私たちが誰かを罪に定めてしまうことになります。それは、教会に来られない誰かを神さまとの関係から遠ざけるという結果を産みます。

どこに居たとしても、その時を「神さまと共にある時間」として取り分け、聖書の御言葉が読まれたならば、それは礼拝です。そこに集う人々は、神さまによって取り分けられた人々、聖なる人々となり、ひとつの体となり、その交わりは聖徒の交わりとなるのです。

これらの事を踏まえて今日の御言葉を見ますと、この4人は、寝床に伏している人を合わせて5人で教会を形成していると言えます。この5人の姿に、私たちは教会のこれからの在りようを見出します。

「伝道」という時、私たちは人をこの礼拝堂に招くと言う事をまず考えます。それは正しいと思います。一つの礼拝堂で一緒に礼拝を守れれば、それは理想的な姿だと私も思います。しかし、信仰生活には様々な姿があって良いのです。みんなが同じような信仰の姿、礼拝の守り方を選択できるとは限らないのですから。大切なことは、その人が主に近付ける、御言葉を聞けるということです。そのためには屋根を破ることさえ許されるのです。

教会のすべきことは、遠隔地にあっては遠隔地での信仰生活を、病床では病床での信仰生活を、介護生活においては、介護生活における信仰生活を、より豊かに送れるように支援することです。その拠点が、この教会であって、ここに集まれる私たちがそのための働き手、執り成す4人なのです。

私たちもいずれ、足が衰えて礼拝堂に来られなくなる時が来ます。その時に「礼拝堂に来られなくて残念」と思うよりも、「礼拝堂には来られないけれど、豊かな信仰生活を送っています。私たちは御言葉によって一つです。」と、どこにあっても感謝できるような教会の形を追い求めたいと思いますし、そのような教会の姿を主に示していただきたいと願います。

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