降誕節第10主日礼拝説教

2022年2月27日

マルコによる福音書 4:35-41

「風すら従う」

ガリラヤ湖の畔にあって、イエスさまは集まってきた人々にいくつかの喩えをお話になりました。この時、イエスさまは一艘の舟に乗り、そこを説教壇として用いられました。

夕方になりますとイエスさまは、舟をそのまま沖に出して湖の向こう側に渡ろうとおっしゃいました。私などは、この御言葉には不自然さを感じてしまいます。これからは闇が湖を覆う時間になります。真っ暗な夜の水面は恐ろしいものです。波の間に岩があっても見付けられないかもしれません。それを考えますと、向こう岸に行くにしても特段急ぐべき理由が無いのであれば夜明けを待ってから出発した方が良いはずです。それでも、敢えてイエスさまは夕方のこの時間に舟を出そうとおっしゃいました。弟子たちは主の御言葉に従って、夕闇の迫る中、湖の向こう岸に向けて漕ぎ出しました。

すると突風が舟を襲いました。この風は、一度通り過ぎればお終いというような風ではありませんでした。しばらくの間吹き続けたために水面が荒れて大きな波が起こり、舟を揉みくちゃにします。弟子たちの中には漁師も居ますから、波を切る方向に舳先を向けますが、それでも波が舟の大きさを超えるほどだったので水が中に入り込みます。弟子たちは何とかして水を掻き出そうと必死になります。手桶など、持っている物の中に役立ちそうな物があればそれを使って、無くても手を使って水を外に出します。

舟に乗っている全員が舟を救おうと必死になっています。そんな中、イエスさまは舟の艫、つまり後ろの方で横になって眠っておられます。イエスさまにとって舟の危機は他人事なのでしょうか。

今、世界中が驚きと恐怖に覆われています。ヨーロッパで戦争が始まってしまったからです。これが切っ掛けとなってより大きな、より恐ろしい戦争が始まってしまうのではないかと、多くの人が危機感を抱いています。

中には次のような意見を述べる人たちがいます。「アメリカも国連もウクライナを助けない。いざとなったら、彼らはあてにならない。それならばウクライナは核兵器を放棄するべきではなかった。」という意見です。

ソビエト連邦はウクライナに大量の核兵器を配備していました。ソ連は危険な物、例えば原発や核兵器をウクライナに押し付けていたのです。ウクライナはソ連崩壊後に、ソ連が残していった核兵器を保持しようとしましたが、アメリカ、イギリス、ロシアの説得によってこれを放棄しました。その代償として、ウクライナの安全はこの三国が保障することになっていました。

ところが、その当事者であるロシアがウクライナを侵略し、アメリカもイギリスもウクライナを助けようとしません。強引にでも既成事実を作ってしまえば国際社会は何もできないという前例が今作られようとしています。

私はアメリカやイギリスがロシアに対して宣戦布告すべきだと言っているのではありません。約束は守られなければならない。平然と約束が破られてしまうのであれば、誰も約束などできなくなってしまうと申し上げたいのです。

この戦争に対する国際社会の対応を見て、日本国内にも強い危機感を持つ人々が居ます。似たような構造が私たちの近隣諸国にも、また日本国内にもあるからです。つまり、中国と日本や台湾の関係です。

日本国憲法の前文において私たち日本国民は、その安全と生存を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して保持する」と宣言しました。つまり国際社会との信頼関係において私たちは自分たちの安全を確保しようとしてきたのです。これこそ私たちの理想です。ところがヨーロッパにおいてそれが破られました。

人は追い詰められ、動揺すると予想外のことを言ったり、してしまったりします。今、まさにそれが顕著に見られます。その極端な例が、「日本も核武装すべきだ」という意見です。しかし、それは私たちの理想の敗北を意味します。

今、世界は闇の中で突風にもまれ、水浸しになった小舟です。弟子たちはイエスさまを起こして詰ります。「先生、私たちが溺れても構わないのですか。先生にとって、私たちはどうなっても良い者なのでしょうか。いま私たちは死にかけているのに、先生は私たちに関心を持ってくださらないのですか。助けてくださらないのですか。」

イエスさまは起き上がり風を叱られました。次いで湖に「黙れ、沈まれ」と言われました。周囲が荒れている時にこそ、私たちは落ち着いて、静まるべきなのです。大声で喚きたてても動揺が増すばかりで良いことは何もありません。確かに湖は恐ろしい表情をしていますが、私たちがすべきなのは、これまでに示されてきたイエスさまの教えを思い出し、荒れている人たちに対して落ち着きを持って語り掛けることです。

今日はヨナ書も読まれました。神さまはヨナにニネベに行って悔い改めを宣べ伝えるように命じられました。しかしヨナは船に乗って、ニネベとは反対の方向にあるタルシシュに逃げようとします。すると船は嵐に遭い、沈みそうになってしまいます。

嵐の原因が自分にあると知っているヨナは船員らに名乗り出て、自分を海に放り込めば海は静まると述べます。その通りにすると、海は静かになり船は救われました。ヨナは溺れてしまったでしょうか。神さまは大きな魚を遣わしてヨナを救われました。

今、世界は嵐の中にあります。私たちは何をすべきでしょうか。私たちは神さまから託されているメッセージを世界に向けて語り掛けるのです。極端に走るべきではない。自分だけの安全や利益のみを追い求めても、誰も幸せにはなれない。私たちは互いを大切にすべきなのです。誰かを傷付けるような選択は絶対に避けるべきなのです。

これは理想です。荒れた海にあって理想を語るのは危険な行為かもしれません。寝ぼけているのか、現実を見ろと、周りの人から責められるかもしれません。しかし、イエスさまは起きておられます。誰よりも目覚めておいでです。そのイエスさまが私たちと共に居てくださいます。だから私たちは世の人々に訴えかけるのです。

世の中がどのようになろうと、私たちは動揺すべきではありません。私たちは、愚直に、ひたすらにイエスさまの正しさを信じるのです。

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