降誕節第7主日礼拝説教

2022年2月6日

マルコによる福音書 4:10-12,21-34

「イエスさまのたとえ」

皆さんに誰かが「イエスさまとはどのような方ですか?」と質問をしたとしましょう。皆さんはどのように答えられますか。

「イエスさまは優しい方です。」とか、「悩んでいる人や苦しんでいる人に寄り添われた方です。」と、説明する人も居るでしょう。あるいは、イエスさまのなされたこと、生きた御姿や死なれた時の様子などの物語で言い表す人も居られるかもしれません。

言葉以外の方法で表現することも可能でしょう。「こういう賛美歌があってね」と、歌や音楽で紹介することもできますし、あなたの心に浮かぶイエスさまの御顔、表情を絵で表すこともできるでしょう。思い切って抽象的な表現だって可能です。

私たちは、それぞれの持つチャンネル、その人が用いることのできる表現方法の全てで、イエスさまを表現することができます。私たちは、思い、言葉、行い、その他さまざまな方法で、私たちにとってのイエスさまとは、このようなお方なのだ、このように私たちはイエスさまを信じていると告白することができます。

表現する者、伝えようとする者にとって最も表現しやすいチャンネルが存在するのと全く同じように、受け手の心にも、理解のしやすいチャンネルが存在します。心の中にあるチャンネルは一つだけではありません。その上、それぞれのチャンネルは時に応じてその性質を変えます。ある瞬間には通りの良くないチャンネルであったものが、何らかの働きを受けることによって、うんと通りの良いチャンネルに変化するということもあります。

小さな子どもにロシア文学を読ませようとしても、子どもは投げ出してしまうでしょう。難しすぎて理解できないでしょうし、何より面白くありません。読むことが苦痛になって、最悪の場合は読書そのものが嫌いになってしまうかもしれません。

最初は、絵本や童話の読み聞かせから始めて、物語の楽しさを知ることが、読書の入口になります。

イエスさまは、聞き手の置かれた状態によって、最も分かりやすい表現を用いて福音を語られました。ある人に対しては不思議な御業を行うことを通して御救いを知らされました。それは、それを見ていた人にとっても分かりやすい表現だったことでしょう。別のある人に対しては物語を通して語られました。それらの表現の中でも、今日は喩えについて焦点を当ててみましょう。

ある日、イエスさまは湖のほとりで群衆に教えられました。その時には、喩えを用いて神さまの御言葉を聞くとは、どのようなことなのか、また御言葉を聞いた人の心にどのようなことが起きるのかということについて話されました。

群衆が帰った今、イエスさまの周りには12人の弟子たちと、その他の弟子たちだけが集まっています。

彼らはイエスさまに、先ほどの喩えについて。質問をしました。するとイエスさまは、群衆に対して喩えを用いられた理由を説明なさいます。

先ほど読まれた聖書の御言葉では、次のように説明されています。

「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」

この御言葉を、どのように解釈しましょう。イエスさまの御言葉を求めて集まってきた人たちが「立ち返って赦されることがないようになるため」に喩えを用いられるとすれば、イエスさまは集まってきた人たちを救いから遠ざけようとなさっておられるのでしょうか。

これは誤訳です。12節の二重括弧の中の言葉は、目的ではなく、理由を述べた御言葉です。つまり、「あなた方に対して秘密を打ち明けるのと同じように彼らに話しても、彼らは理解できないし、それでは彼らは立ち帰ることも赦されることもできないから、私は喩えを用いて、噛み砕いて話をしているのだ。」と仰っているのです。

“ινα”という接続詞をどのように解釈し翻訳するかによって、これほどの違いが出てしまうのです。新共同訳は今、最も普及している聖書と言えますが、問題を感じることも多々あります。

イエスさまは、出来るだけ多くの人が神の国を知り、立ち帰って赦されることを望んでおられます。そのために、御言葉という種を蒔かれます。喩えは、充分に耕されていない土地でも根付くことのできる、優れた種のことです。

イエスさまは更に続けて種を蒔かれます。神の国を種まきになぞらえて説かれました。

白百合幼児園でも子どもたちがプランターに種を蒔いて花を育てます。蒔かれた種は、何日か経つと芽を出します。子どもたちは自分が植えた種から小さな芽が出たことに目を見張ります。子どもたちは植木鉢のそばでずっと見ているわけではありませんので、子どもたちにとっては「気が付くと芽が出ていた」ということになります。

子どもたちはそれぞれ、一粒づつ種を蒔くことでしょう。農夫ははるかに多くの種を蒔きます。この聖書箇所で言われている種とは、28節と29節にある「穂」や「鎌を入れる」という描写から、麦のことではないかと推測することができます。

蒔かれた種は土と混ざって、よほど注意しないと見分けることもできません。それでも数日の後には芽を出し、茎を伸ばし、数か月の後には穂ができて実を結ぶのです。では一体なぜ種は芽吹くのでしょうか。何者が種に芽吹く力を与えているのでしょうか。主は言われます。「どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

確かに、誰も直接的に種に働きかけて実を結ばせることはできません。農夫たちは、どのようにすればより多くの実りを得ることができるかについては知っていたことでしょう。雑草を抜いたり、水を撒いたりして、成長を助けることはできたでしょう。それでも、成長させることはできません。イエス様は種を育てる力は土にあるとおっしゃいます。土が種に芽吹く力を与えるのだとおっしゃいます。

土は、水や栄養分を含んでいます。種はこの土から必要なものを受け取って育ちます。種の成長に最も直接的に関わるのは、主が言われるように土です。農夫にできることは、あくまで手助けであって、種を育てる力は農夫たちに由来するものではありません。土が種を育てるのです。

さて、主がこの種によって例えられた神の国とは何なのでしょうか。私はこの種を育てる土こそ、神様との関係であると考えます。新共同訳聖書では「国」と訳されている言葉ですが、その本来の意味は王国です。王が支配者として、守護者として治める国です。神様がその人を治める時、当然にその人は神様との関係の中にあります。その人の心に蒔かれた、「御言葉」という種は、神様との関係において育まれ、芽を出し、まず茎、次に穂、そしてその穂に豊かな実を結ぶのです。実が熟すと、私たちはさっそく鎌を入れ、収穫を喜ぶのです。

更にイエス様は神の国をからし種に例えられました。この例えに用いられた植物が今日で言うところの何という植物であるかはハッキリしていません。諸説ある中で、最も信頼できると私が考えるのは、それはクロガラシという植物ではないかという説です。このクロガラシという植物の種はおおよそ0.5mmほどですので、確かにとても小さいですし、この植物は地中海沿岸に自生しているのだそうです。

この植物が何であるかということは、実はあまり重要ではないと思います。ここで重要なことは、とても小さな種であっても、蒔かれて成長すると大変大きくなり、葉の陰に鳥が巣を作れるほど大きくなるということです。

先ほど私は「種とは御言葉のことだ」と申しました。その理由は今日読まれた箇所から少しさかのぼった「種を蒔く人のたとえ」と関連付けて考えたからです。そして、たとえに用いられた種は麦であっただろうとも申しました。今、ここで話題としていますのは、からし種です。

麦とからし種。これらは違う種類の植物ですが、私はこの例えにおいては種類の違いは大きな問題ではないと考えます。それが種であるということに意味があると考えるからです。つまり何が言いたいのか。御言葉という種は、もちろん受け取る人によって感じ方は当然違うでしょうが、仮にそれが小さな種であったとしても、それは大きく成長し、鳥に巣を作る場所を提供するほどにまで育つのだということを言いたいのです。

  私たちは折に触れて主の愛を伝えようと努力します。しかし、必ずしもその努力が直ちに大きな変化をもたらすとは限りません。自分がしていることが、とても小さなことなのではないかと、めげてしまいそうになる時もあります。しかしそれは、無意味なことではないのです。小さな種であったとしても、主がそれを大きく育ててくださるのです。

私たちは主に遣わされます。そして、遣わされた場所で、御言葉という種を蒔きます。ある時は言葉によって。ある時は、行動によって。さまざまなやり方で、私たちは御言葉を表現するのです。見せるのです。御言葉の種を蒔くのです。

蒔かれた種は、とても小さいかもしれない。蒔くとすぐに土と混ざってしまって、私たちの目には見えなくなるかもしれない。一見何の変化も起こっていないように思えるかもしれません。変化があったとしても、とてもとても小さな変化に過ぎないかもしれません。しかし、御言葉は必ずその人の心で働きます。それは、私たちの力によるのではありません。神様が働かれるのです。神様は確かにその種を育てられます。

先週一週間、神奈川教区の作品展が開かれていました。今回は「主を賛美せよ」というテーマで作品を募集しましたが、集まった作品はどれ一つを取っても、賛美の心に満ちた、素晴らしい作品でした。

表現の手法はみんな違います。彫像、絵画、手芸、書、朗読、その他、様々な形で主が賛美されていました。

様々な形で主は私たちの心に触れ、種を蒔かれます。その人の心の中で、最も良い形で育つ種を主は蒔いてくださいます。そして、そのために私たちを働き手として用いられます。私たちにできることは何でしょうか。悩む必要はありません。私たちが主と共にある悦びを一番大きく感じられるやり方で主を賛美すれば、それが何よりも力強い伝道となるのです。

それは、ある人にとっては手紙を書くことかもしれません。別のある人にとっては、話を聞くことかもしれません。公園の掃除や近所付き合いだって伝道です。時には泣くことがあるかもしれません。そんな時、私たちが流す涙もまた、伝道です。私たちの生活のあらゆる瞬間を用いて主は種を蒔かれるのです。

主は小さな種から大いなる実りを与えてくださいます。いつか、私たちは収穫の時を迎えます。その時を私たちは待ち望みます。その日まで、私たちは日々の生活に働く神様の力に、私たちのうちに働かれる神様の力に感謝しつつ歩むのです。

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