2022年3月13日
マルコによる福音書 3:20-30
「中傷者の矛盾」
ドラマ「3年B組金八先生」というドラマをご存知の方も多いと思います。断続的にではありますが32年間という長期にわたって放送されたこのシリーズは、その時代ごとの世相を取り上げることで、ある種の問題提起をしていました。武田鉄矢の演じる金八先生は不器用な人物です。その金八先生が生徒の一人ひとりに、気持ちを真っすぐぶつけ、生徒が困った状態になってしまった時には一所懸命に奮闘する様子は、見る者に「教育者にはこうあってもらいたい」という希望を抱かせました。
しかし、一方でプライベートの部分を投げ打ってしまうという彼のスタイルが、教育者に対する過剰な期待となったり、あるいは教育者自身が重過ぎる責任感を背負うことに繋がったりして、教育者が疲弊してしまう、それも回復できないほどに疲れ切ってしまうということが起きるようになってしまいました。
学生時代に教育学を学びましたが、講義中に「金八先生を目指してはならない」と言われたことを覚えています。理想に燃える人ほど、金八先生を理想像とし、仕事という範疇を超えて教育と向き合おうとする。その結果、自分でも気付かぬうちに疲弊してしまい、最終的には潰れてしまうということが多々あったのだそうです。
教育者を育てる過程で「金八先生を目指してはならない」と警告されるのと同様に、牧師を育てる過程では「イエスさまを目指してはならない」と言われます。人間はメシアにはなれない。イエスさまになろうとしてはならないと教えられます。
今日のイエスさまの御姿を見ていると、この警告は正しいと思わされます。救いを求めてイエスさまの周りに集まる人の数はあまりに多くて、弟子たちも食事すらできていません。イエスさまだからこそ、これらの人々に向き合うことが出来るのですが、これは普通の人間にできることではありません。
欠乏と困窮の中にある人々は、イエスさまから神の御言葉を聞き、イエスさまを通して神の国を経験し、満たされて帰って行きました。それに対し、自分たちの立場がイエスさまに侵されつつあると考える人たちは、イエスさまの献身を中傷の種にします。「あんなの普通のやり方じゃない。あいつはどこかおかしい。」そう吹いて回ったのです。それを聞いたイエスさまの家族は、イエスさまを連れ戻そうとやってきました。家族の気持ちも分からなくはありません。
イエスさまはヨセフの家の長男ですから、世間一般の常識で考えるならばヨセフと共に働いて家計を支えるべき存在です。イエスさまがお生まれになってから30年が経っていますから、ヨセフが老いて働き盛りを過ぎているという可能性もあります。もしそうならば、イエスさまが一家の大黒柱となるべきです。イエスさまの家族としては、他人を助けている場合ではないのです。そういう下地があるから、彼らはイエスさまに対する否定的な評価に影響され、イエスさまを連れ戻そうとしたのです。
また、「金八先生を目指してはならない」という言葉は別の意味での警鐘でもありました。「メサイア・コンプレックス」という言葉をご存知でしょうか。これは、誰かを助けることによって得られる満足感によって自尊心を満たそうとする心の動きを指す言葉です。
この満足感は麻薬のような性質を持っていて、これに慣れてしまった人物は、常にこの種の満足感を得られるように振舞い始めてしまいます。ところが、自己満足のための行いは往々にして的外れな行動へと繋がり、かえって害をなすようになってしまいます。
イエスさまを中傷した人々は、自分たちの教えこそが人々を救うと考えていました。「救う」という立場に慣れてしまった彼らにとって救いとは、人々のためにではなく自分が満足するための手段となってしまっています。そして今、ヒーローの座が奪われようとしている。それが悔しくて、イエスさまについてあらぬ噂を流したのでしょう。
考えてみると、これらの人々、エルサレムから下ってきた律法学者たちは自信を喪失していたのかもしれません。自分たちが説き続けているように掟を守りさえすれば、人は救われる、幸せになれるはずなのに、実際にはそうなっていない。これは、彼らにとってはアイデンティティの危機です。
どう頑張っても自分たちのやり方では人を救えない。それなのに、あの男にあった人々は満ち足りた様子で帰って行く。あの男は寸暇を惜しまず、集まる人々に尽くしているから、あの男を慕う人間は増える一方だ。
彼らは悔しさと嫉妬から、イエスさまを中傷して言います。
「あの男はベルゼブルに憑りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」
ベルゼブルとは、元来はバアル・ゼブル、つまり「気高き主」ですとか「高き館の主」という意味を持つ豊穣の神の呼び名でした。イスラエルの人々がカナンを制服すると、このバアル・ゼブルを神に敵対する者、人を惑わし、苦しめる者として、語呂の似た「バアル・ゼブブ」という名前に変えて、卑しめるようになりました。これは「ハエの王」という意味です。かつてカナンに先住していた民族の神は、悪魔の中の支配的な存在とされました。
彼らの言葉を耳にされたイエスさまは、律法学者たちを招かれました。対決をしようというのでしょうか。イエスさまは喩えを用いて語られました。思い出してください。これまでイエスさまはどのような相手に喩えを用いられたでしょうか。何を目的として喩えを用いられたでしょうか。イエスさまは、律法学者たちを諭されました。御言葉の意味を中々理解できない人々に対して諭された時と同じように、御心を一つ一つ噛んで含めるようにして諭されました。
「サタンの力でサタンを追い出すことは出来ない。」
サタンとは、「試みる者」「誘惑する者」「中傷する者」という意味を持つ名前です。ヨブ記においては、ヨブを苦しめて彼の信仰を試みようとし、荒れ野においてはイエスさまを誘惑しようとした者です。そして今、律法学者たちはイエスさまを中傷しています。
自分が満足するために人を救おうとする。自分が満足できないから人を中傷する。律法学者たちの心は、サタンによって捻じ曲げられてしまっています。
その律法学者たちにイエスさまは語り掛けられます。
「あなたたちは私を神に敵対する者だと言っているが、嫉妬や中傷では真に人を救っている私を追い出すことはできないし、嫉妬や中傷では人を救えないんだよ。それに私は力でこの人たちの苦しみを抑え込んでいるわけでもないんだ。」
そう前置きをしてから、律法学者たちの論本の矛盾を指摘されます。
人を苦しめる霊的な勢力があるとして、その中の有力者の力を用いることで、その勢力を退けることが出来るでしょうか。そんなことをすれば、たちまちこの勢力の中で内乱が起きてバラバラになってしまいます。すると、結果的に人を苦しめる勢力は力を失ってしまいます。人を苦しめる勢力を支配する者が自分たちの力を弱めるようなことをするでしょうか。
人を苦しめる勢力に対して振るわれる力とは、人を救う方に由来するものであるはずです。
そして、苦しめる者よりも強い力、それも圧倒的に強い力で臨まなければ、苦しめられている人を取り戻すことは出来ません。ヤクザの喧嘩と同じです。チンピラをやっつけても、次にはその兄貴分が出て来ます。兄貴分をやっつけても、さらに強い親分が出て来ます。親分をやっつけられる力が無ければ、その人を最終的に悪魔の支配下から取り戻すことは出来ません。今の律法学者たちにその力があるでしょうか。彼らが今振るう事の出来る力とは、嫉妬や中傷でしかありません。
人を苦しめる勢力に打ち勝つ力、それも絶対的な力を持つのは、ただ神さまだけです。人が誰かの苦しみに臨もうとする時、必要とされるのは、神さまから注がれる力、聖霊の働きです。自分の立場のためにその人の救いを求めるのではなく、心の底から、その人が救われることを求めることそのものが、私たちの心で働く聖霊の力なのです。
イエスさまは厳しい言葉で締めくくられました。
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
大変恐ろしい響きを持つ御言葉です。イエスさまは律法学者に永遠の罪を宣告なさったのでしょうか。そうではありません。
罪とはギリシャ語でἁμάρτημαと言います。これは字義的には「的外れ」を意味する言葉です。
例えば弓矢の競技で矢が的を外してしまうことをἁμάρτημαと言いました。つまりイエスさまが仰りたかったのは、「『心底その人を思うということこそが最も大切なのだ』と気付かず、人の内に働く神の霊について、うがった見方しか出来ない者は、いつまでたっても的外れのままなのだ。」ということです。
色んな思惑が渦巻いています。色んな中傷が飛び交っています。私たちみんなが惑わされています。そんな時代だからこそ、私たちは真っすぐに物事を見つめるべきなのです。
私は金八先生が嫌いではありません。あの働き方はどうかと思いますが、彼は子どもたちを善意の目で、真っすぐに見ようとしていました。
私たちは金八先生にはなれません。私たちはイエスさまにはなれません。それでも、出来る限り真っすぐに人を見たいと思います。