受難節第3主日礼拝説教

2022年3月20日

マルコによる福音書 8:27-33

「主への思い」

イエスさまは弟子たちに質問をされ、それに続いて御受難を予告なさいました。これまでイエスさまは人々を癒すことを通して神の国を説いておられましたが、この出来事を境にして弟子たちへの教育に心血を注がれるようになります。おそらく、この時期にイエスさまは御自分の御最期が苦難の末の死であることを予想され、御最期の後のために弟子たちに真実を伝え、育てようとなさったのでしょう。

イエスさまは弟子たちを連れてフィリポ・カイサリアにおいでになりました。この町はヘロデ大王が皇帝アウグストゥスから与えられた町です。ヘロデ大王はそれを記念して皇帝の像を安置した神殿を建設しました。後、ヘロデ大王の息子であるフィリッポスが町を整備し、皇帝ティベリウスに経緯を表して町の名前をカイサリアと改めました。つまり、皇帝への崇拝、礼拝を象徴する町です。

この町でイエスさまは弟子たちに質問をされます。「人々はわたしのことを何者だと言っているか。」

決して、周囲の評価を気になさったのではありません。イエスさまはこの時から少しずつ、ご自分が何者であるのかを弟子たちに明らかにしようと決意なさいました。それに先立って、人々の理解と弟子たちの理解を確かめようとなさったのです。

弟子たちは答えます。「ある者は『洗礼者ヨハネだ』といいますし、『エリアだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人も居ます。」

これを聞かれたイエスさまは弟子たちに重ねて尋ねられます。

「ではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

実はここでイエスさまが問われているのは、告白です。「あなたがたの信仰を告白せよ」と弟子たちにお命じになっているのです。

弟子を代表してペトロが答えました。「あなたはメシアです。」

イエスさまはこの答えに満足なさいました。それなのに弟子たちにご自分がメシアであることを誰にも言ってはならないと禁じられました。これは不思議なことです。伝道とは、イエスさまこそが救い主であるということを伝えることです。イエスさまが来るべきメシア、約束された救い主であると言うことを前面に押し出した方が、より多くの人々を救いの道に導けるのではないでしょうか。

イエスさまは誤解を避けられたのです。当時、ユダヤの人々にはメシアのイメージがありました。それは、かつて自分たちの国を強大な王国とし、栄えさせたダビデのような人物が現れて、再びこの国を強い国とし、自分たちを外国の支配から解き放つ者が現れる。その人物こそメシアであると。

しかし、この人々が真に救われるために必要なものは、それではないとイエスさまは考えておられました。イエスさまの目には、違うものが映っていました。イエスさまの持っておられた救いのイメージは、民衆が求めていた救いとはかけ離れたものでした。

イエスさまの持っておられた救いのイメージは決して突飛なものではありませんでした。イザヤ書を見ますと、53章にいわゆる「苦難の僕」という人物が登場します。神さまはイザヤを通して「苦難の僕」について語っておられます。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

メシアとは、人々の罪に赦しを与えるため、自らの血を流して苦しむ者のことです。この人物は、最終的に生贄として屠られるとイザヤは伝えています。これは、イエスさまの周りに居た人々が持つメシアのイメージとはかけ離れていました。だから、イエスさまは無用の誤解を避けるため、誤った期待をさせないように、御自分がメシアであることを誰にも言ってはならないと、弟子たちに戒められたのです。

そしてイエスさまは更に一歩を進められました。メシアとは何者であるのかを教えるために、御自分がどのような御最期を迎えられるのかについて教え始められたのです。イザヤはメシアの最期についても預言しています。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

キリストは裁判にかけられる。侮辱され、尋問されるが、決して口を開かない。鞭打たれ、思い十字架を背負わされ、丘を登らされる。苦しみに満ちた死が彼を待っている。だが、神の救いの物語はわたしが死んで終わるものではない。むしろ、わたしが死んだ後に完成するのだ。復活によって完成するのだとイエスさまはハッキリと話されました。

イエスさまがおっしゃったことを弟子たちには全く理解できませんでした。弟子の筆頭格であるペトロはイエスさまを諫めます。「そのようなことはおっしゃらないでください。そんなことを言われると、ついて行けなくなる者が出て来ます。」

彼らにとってイエスさまがおっしゃったことはあまりにも突飛だったのかもしれません。あるいは恐ろしかったのかもしれません。ペトロはイエスさまをメシアだと告白しましたが、必ずしもイエスさまの御心を理解していたわけではありませんでした。だから、もっと人々が受け容れやすいイメージで語って欲しかったのでしょう。

イエスさまはペトロを叱って言われます。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

大変厳しい言葉です。愛する弟子のことをサタンとおっしゃっていますが、ペトロをサタンと呼ばれたのではありません。ペトロもまた多くの人々が持っているメシアのイメージにとらわれている。その考えは人々を間違った方向に誘導してしまうのだ。その考え方を捨てよと叱っておられるのです。

救いは、人の肉による求めによっては実現されないのです。真の王は、人の肉の思いによってではなく、神の御心によって世を統治するのです。ローマ皇帝の統治は確かに合理的でした。彼らは自己を神格化し、人々に自分を礼拝するように求めました。その結果、人々の心を掌握することに成功し、ローマは強い国となって、外敵を下しました。しかし、そこで血を流したのは誰だったでしょうか。真の王は、救い主メシアは、民に流血を強いる者ではなく、自らの血を流すお方なのです。

わたしたちが見ている、この世の王たちはどうでしょう。この世でわたしたちを肉体的に統治する人々は、自らの血を流しているでしょうか。彼らの地位も、神さまから与えられた、責任ある地位です。彼らは神さまから託された責任を誠実に果たしているでしょうか。わたしたち国民も彼らを信じ、地位を与えました。わたしたちは責任を持って正しい選択をできたでしょうか。ロシアの神父の言葉が厳しさをもってわたしの心に響きます。

「あらゆる流血は、どのように正当化したとしても罪だと私は考えます。その罪は人の血を流した人たちのものであり、それを命じた人が居ればその人のものである。また、その流血に賛成した者、沈黙していた者の罪である。」

ご復活によって救いの御業は完成しました。ご復活を見たわたしたちがすべきことは、イエスさまこそ救い主だと宣べ伝えることです。

いま、多くの血が流れています。苦難の時期です。このような時だからこそ、わたしたちは自分のちっぽけな頭で考えたことによってではなく、主イエス・キリストの御名によって救いを訴えるべきなのです。


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