受難節第4主日礼拝説教

2022年3月27日

マルコによる福音書 9:2-10

「山上の変貌」

今日、主イエスは3人の弟子たちと、そして私たちを引き連れて山に登られました。そこで弟子たちは、わたしたちは、いくつかの不思議な出来事を目の当たりにしました。この出来事を通して神様はわたしたちに何をお語りになるのか。ともに味わいましょう。

朝の過ごし方と申しますか、朝の心の様子が変わってきたと言う風に感じています。と申しますのは、東京に住んでいたころ、つまり神学校の寮に住んでいたころ、朝は忙しい時間でした。町自体が慌ただしい雰囲気を持っていて、道を行く人もせかせかと歩いていました。私も務めていた店に速足で歩くだけで、朝とはただそれだけの時間でした。

それが今は違います。毎朝、幼児園の職員の皆さんと礼拝を守り、御言葉を味わい、それから入り口で子どもたちを迎え入れる。ひっきりなしに子どもが来るわけではありませんので、誰も居ない時には周囲を眺めたりします。良く見るのは山です。毎日変わる大山の表情は、時に神秘的なものを感じさせることもあります。

山に対して持つ思いは、決して私だけが持つ感想というわけでもないと思います。多くの人が、特に秦野に住む人の多くが持つ感覚なのではないでしょうか。そしてこの感覚は、私たちの文化にも影響を与えています。このあたりには弘法大師にまつわる伝承が多く残っていますが、弘法大師が庵を結んだ山は弘法大師から名前を取って、今でも弘法山と呼ばれていることは、皆さんも良く御存知でしょう。

古来、人々は信仰的な時間を求める時、山に登りました。山は神聖さを感じさせる場所です。この感性は日本人だけが持っているわけではないようです。イスラエルの人々にとっても、山は特別な場所でした。たとえば、ノアはアララト山の頂で神さまと虹の契約を結びましたし、アブラハムがイサクを奉げようとしたのも、山の上でした。モーセに神さまが現れたのも、十戒が与えられたのも山での出来事でした。山は神さまと人とを繋ぐ神聖な場所でした。その感覚は、新約の時代になっても失われてはいませんでした。イエスさまは山に登って、そこで使徒を選び出されましたし、祈るために山に登られることもしばしばでした。

そして今日、私たちの主イエスは3人の弟子たちと私たちとを引き連れて山に登られました。すると、私たちの目の前で主の御姿が変わります。服は白く、それも私たちの知っているどんな白さよりも白く輝いています。色には意味があります。白は無垢、あるいは純粋さを表す色です。ヨハネの黙示録に登場する長老たちは、子羊の血でその衣を洗って白くされた人々、つまり子羊の血によって罪を洗い清めていただいた人々でした。白は罪が無いということをあらわす色なのです。

主イエスの御衣が白く輝いたということは、主イエスには全く、何の罪も無いということを示しています。してみれば、主の御姿が変わったと捕らえるよりはむしろ、主の本来の御姿が明らかにされたと捕らえるほうが正しいでしょう。つまり、ここで主は初めて弟子たちにご自身の本質を、神の子であるということをお示しになったのです。

まばゆく輝く光の中に、二人の人物が姿を現します。手で目を覆い、眩しさを透かして見てみると、その二人の人物は預言者エリヤとモーセでした。

モーセは神の召しによってイスラエルの人々を、奴隷として囚われていたエジプトから導き出した人物であり、シナイの山中で神から十戒、つまり律法を授けられ、神とイスラエルとの契約を結んだ人物です。つまりイスラエルのアイデンティティの基礎、土台を築いたと言える人物です。

エリヤは、モーセの時代からうんと下って、イスラエルが宗教的にもモラルの点からも堕落し腐敗しきっていた時代に、神に立ち返ることの正しさを訴えた人物です。神を捨て、バアルという異民族の神を拝んでいたイスラエルに対し、自分達をエジプトから救い出した神に立ち返ることを訴え、そのためにバアルの預言者と直接対決をし、またイスラエルの王アハブがナボトを殺し、ナボトが「先祖代々、神から与えられた土地」として守ってきた畑を奪った際にも、王に対して「あなたのしたことは不正である」と、神の怒りを、神の声を直接に語った人物でした。

ここで主イエスがエリヤ、モーセとともに語っているということは、主イエスの語られる言葉が律法や預言と等しく、神の言葉であるということを示しています。

光の中で語り合うエリヤ、モーセ、そして主の御姿は、それを目にする私たちにとって、それを見て何をすれば良いのか、どうすれば良いのか分からないほどに文字通り神々しく私たちの目に映ります。困惑に耐えかねてペトロは三人の会話を遮って主に言います。

「先生、仮小屋をあなたとエリヤとモーセのために3つ建てましょう。」

これも不思議な発言です。なぜ、ペトロは小屋を建てるという発想をしたのでしょうか。これはきっと、ペトロの真心から出た発想だと思います。いま目の前に居る三人のために何かをしてあげたい。いま目の前で起きている出来事を何とか後に残したい。そう思ったときに、三人のために小屋を立てるということに思い至ったのでしょう。しかしこの発想は、あまり良い考えとは言えません。

そもそも、神さまとイスラエルの関係の最初の姿に立ち返って考えてみたときに、神さまはどこにおいでだったでしょうか。一つのところに居られたでしょうか。建物の中に居られたでしょうか。神さまは何ものにも縛られない方だったはずです。神さまはモーセに幕屋を建てるように御命じになりましたが、これとて神さまを一つところに縛り付けるようなものではなく、むしろ民族とともに旅をする方だったはずです。この幕屋が一つのところに固定されるようになった途端に、堕落と腐敗が始まりました。幕屋の固定は神殿の建築へと繋がり、権威、権力、富の集中が始まるきっかけとなったのです。

もともとは神さまと自分達のとの関係を永く残したいという願いから、イスラエルは神殿を建築したのでしょうが、神さまを神殿に押し込め、閉じ込めた結果、イスラエルは神さまから離れてしまったのです。挙句の果てに永遠に残したいと願っていた神殿そのものを異民族に壊されてしまったのでは、元も子もないではありませんか。

ペトロたちの提案にイエス様は何もお答えにはなりませんでした。ペトロたちは恐ろしさのあまり何をしたら良いのか分からず、戸惑っていました。そんなペトロたちを一叢の雲が覆います。そして、雲の中から声が聞こえます。

旧約聖書において、神さまが姿を表されるとき、雲や煙があたりに立ち込めたという記述が多くあります。神さまが人に直接的に関与される時に、雲が現れます。モーセがシナイの山に登った時にも雲が現れました。エジプトを脱出した後、荒野を旅するイスラエルを導いたのは雲の柱でした。臨在の幕屋に神さまが居られるときは、幕屋を雲が覆いましたし、イザヤが召し出されたときには煙が、エゼキエルが召し出されたときにはやはり雲が巻き起こりました。ペトロたちのところに神さまがおいでになったのです。そして神さまはペトロたちに直接話しかけられます。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

この声を聞いた弟子たちは、いったい誰が話しかけているのかと、あたりを見回しますが、そこには主イエス以外には誰も居ません。

さきほど主イエスは眩く輝く御姿を、ご自身の本当の姿を私たちに示し、ご自身が神の子であるということを明らかにされました。そして今度は神さまが主イエスをご自身の御子であると明らかにされました。そして更に教えてくださいます。

「これに聞け」

私たちは主イエスの御言葉に聞くのです。主の御言葉とは何でしょうか。それは石に刻まれた言葉とは違います。異民族に持ち去られてしまうような箱に収めたり、壊されてしまうような神殿の奥に隠したりすることができるようなものではないのです。生きた言葉、生きて私たちの胸に刻まれる言葉なのです。

また、エリヤを通して語られたような、神の怒りを告げる預言でもありません。「神を愛しなさい、そして人を愛しなさい」という愛の言葉であり、私たちの罪の赦しを告げる救いの言葉なのです。

雲が晴れたとき、そこにはもう、エリヤもモーセも居らず、主イエスだけが私たちと共に居られました。預言も律法も最早無く、ただ生きた言葉、愛の言葉だけが私たちと共にありました。預言や律法が消え去ってしまったとしても、愛の言葉は、主イエスは決して私たちから去ることなく、永遠に一緒に居てくださるのです。

雲は私たちの目を覆い、周りを見えなくしてしまいます。私たちには苦しみのあまり、困惑のあまり何も見えなくなってしまうことが、日の光すら見えなくなってしまうことがあります。しかし思い起こしてください。私たちが雲の中にあったとき、そこに神さまは居られませんでしたか。むしろ雲の中にこそ神さまが居られたのではないですか。私たちが苦しみの中にある時にこそ、神さまはその存在を、共に居てくださっているということをお示しになります。

今、私がそれを言えるのは、今が雲が吹き払われた後だからなのかもしれません。すでに苦しみを免れたからこそなのかもしれません。しかし私は言いたい。今もし雲の中に立たされている人が居るならば、「いまこそ神さまはあなたと共においでなのです」と。それは、今の苦しみに耐えろとか、乗り越えろということではありません。むしろ、その苦しみを神様に訴え祈って欲しい。吐き出して欲しい。そして、私たちにもその悲しみを共に負わせて欲しい。一緒に祈らせて欲しい。わたしたちは共に主の御姿を仰ぎ見る群れだからです。

主は決して御姿を隠されません。一瞬たりとも、御姿を隠されません。その御姿をあなたと一緒に探したいのです。

山を下りる時となりました。

主は私たちに語りかけられます。

「私が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない。」

向こうの方で弟子たちが議論しています。「死者の中から復活するとはどういうことだろう。」

今、私たちは主の復活の後に生きています。主はご自身が復活なさるまでは口をつぐめと御命じになりました。しかし私たちは復活の後に生きています。4月17日までは復活の前ですか。そうではないはずです。復活は2000年の昔に既に起き、私たちは復活の後の時代に生きています。最早議論をすべき時ではないのです。

私たちがすべきことは議論ではなく、神の御子が全ての人と共に居られることを誰にでも話すことなのです。愛の言葉を、赦しの、救いの言葉を、福音を全ての人にのべ伝える時なのです。

路傍に立って街を行き交う人々に語りかけろとか、教会に連れて来いとか、そういうことではありません。もっと簡単なことです。いえ、もしかするともっと難しいことかもしれません。あなたが受けた愛を、身近な人に伝えること。あなたがしてもらって嬉しかったことを、あなたも誰かにする。こうしてわたしたちは主の家族を形作るのです。

私たちは主がともに居てくださることを願います。私たちは、主が私たちとだけではなく、全ての人々とともに居てくださることを願います。この願いを叶えるためには、私たちは主を閉じ込めてはいけないのです。主を隠してはいけないのです。

ほんの一言が、神さまを証しします。ほんの一言が、その人を神さまと結び合わせます。その一言を伝えるために、わたしたちは遣わされるのです。

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