2022年4月17日
ヨハネによる福音書 20:1-10
「わたしは主を見た」
大変なことが起きてしまいました。私たちの主イエス、イエスさまの亡骸が失われてしまったのです。確かに私たちは主が息を引き取られるのを見ました。確かに私たちは兵士の一人が十字架の上の主を槍で刺す様子を見ました。確かに私たちは、没薬と沈香を混ぜた油を主のご遺体に塗り、亜麻布で巻いてお墓に納めたはずです。そして、万が一にも主のご遺体が荒らされたりせぬよう、重い石でお墓の入り口に蓋をしたはずです。にもかかわらず、今朝になって主のご遺体が墓穴に無いというのです。この知らせは、主の死によって絶望していた私たちをさらに困惑させます。一体何が起こったというのでしょうか。主が十字架につかれて三日目、週の初めの日にマグダラのマリアは、主を葬ったお墓に行きました。なぜ彼女がお墓に行ったのか、その理由はよくわかりません。この部分についての記述は4つの福音書それぞれに揺れがあります。マルコとルカでは、女たちは主の亡骸に香料と油を塗るために墓へ行ったと記されていますが、ヨハネにおいてはその作業はすでに済んでいます。ですので、マグダラのマリアは何か必要な作業があってお墓に行ったのではないのです。しかし、それに私はさほど違和感を持ちません。私ももし大切な人を亡くしてしまったならば、彼女と同じようにお墓参りをするのではないかと思うからです。
ところが、お墓の前に来たマリアが目にしたのは、お墓に置かれていたはずの石がどけられて、閉じられていたはずの入り口が開いている様子でした。驚いた彼女はシモン・ペトロと、主が愛しておられた弟子の二人のところに行き、彼らに告げます。
「主が墓から取り去られました」
彼女はまだ、主の御復活を知りません。墓穴の蓋が移動しているのを見て、とっさに「主が墓から取り去られた。誰かが主のご遺体を盗んでしまった」と思い込んだのです。彼女はお墓の中を見もせずに、とにかく驚き、慌てて弟子たちのところへ知らせに走ったのです。
マリアの知らせを受けた二人の弟子たちは、お墓へ向かいます。二人は走って行ったのですが、この場面の描写に私は少し「子どもっぽさ」を感じます。
伝統的にはこの「主が愛しておられた弟子」とは、福音書記者ヨハネ自身であると理解されています。もしそれが正しいとすると、福音書記者ヨハネは「僕もシモン・ペトロも大急ぎで走って行ったんだけど、僕の方が早かったもんね!」と、子どもが駆けっこで一番になったことを自慢するように、自分の方が墓に早く着いたと自慢しているように感じられるからです。
無論、ここでヨハネは先についた方が優れているなどと言いたいわけではありません。ここから続く、二人の弟子たちの記述は、ある種の例えとしてここに置かれているのです。
この二人は象徴です。ヨハネによる福音書の成立の過程をたどってみますと、その背景にはまず、当時のイスラエルの人々から蔑まれていた、サマリア人のキリスト者が、そして時代が下ってくるにつれて、ユダヤ教徒から迫害されていた異邦人キリスト者の姿が見えます。もしも福音書記者ヨハネが自分自身を「イエスが愛された弟子」として物語に登場させたのだとすると、彼は自分自身をユダヤ人ではないキリスト者の象徴として物語に登場させたのではないかと考えられます。
そうするとシモン・ペトロは何を象徴するのでしょうか。彼はのちにエルサレム教会の中心的、指導的立場に立ちます。つまりここで彼はユダヤ人キリスト者の象徴として登場しているのです。この二人の対比によって、当時のユダヤ人キリスト者とユダヤ人ではないキリスト者の双方が、どのような経緯をたどって御復活を信じるに至ったかという道筋が、極めて端的に描かれているのです。
まず「主に愛された弟子」の方が先に墓に着きました。彼は墓穴を覗きます。そこで彼が見たのは、主の御身体を覆っていた亜麻布でした。亜麻布が残されている、このことを考えると、誰かが主の御身体を盗んだと考えるには、何かが引っ掛かるのです。この弟子はおそらく考えこんでしまったのではないでしょうか。何かがあったに違いない。しかし何があったというのか。決定的なところにまでは踏み込みませんでした。
その決定的なところに踏み込んだのはシモン・ペトロでした。ペトロは若干遅れて墓に到着しましたが、彼は墓に入り、亜麻布と主の頭を覆っていた布とを発見します。もしも主の亡骸が盗まれたのであれば、犯人は墓穴の中で主の御身体から亜麻布を、頭を覆っていた布をご丁寧に剥ぎ取るでしょうか。盗みの現場で時間がかかる作業をわざわざ行う者はいません。まごまごしている間に誰かが来て、咎められないとも限らないのですから。いったん現場を離れて、安全なところに来て初めて手間のかかる作業に取り掛かるはずです。
つまり、主の亡骸は誰かによって持ち去られたのではないのです。墓の中の様子を見た弟子たちは、そこに残された2枚の布を見た弟子たちは、主が自らこれらの布を脱ぎ去って、自ら墓から出て行かれたのではないかと考え始めます。つまり、墓に入って来て、墓の中の様子を、主が自ら墓から出られたという痕跡を見て、主の御復活を信じたのです。
なぜ、後に到着したペトロが先に墓の中へと入ったのでしょうか。先ほど私はペトロをユダヤ人キリスト者の象徴と申しました。福音書記者ヨハネはおそらく、ユダヤ人キリスト者がユダヤ人ではないキリスト者よりも先に復活信仰に思い至ったのだという順番を、ここで暗に描きたかったのではないでしょうか。私は、彼にそれをさせる動機が充分にあったと考えます。
そもそもペトロはガリラヤの漁師でした。そして彼はユダヤ教徒でした。キリスト教にもいくつかの教派があるように、ユダヤ教にもいくつかの教派があります。この時代、民衆にもっとも大きな影響力を与えていたのはファリサイ派でした。ですので、ペトロがファリサイ派に属していた可能性は大いにあります。少なくとも多少の影響は受けていたでしょう。ファリサイ派の神学が持つ特徴の一つに、ファリサイ派には復活信仰があるという点が挙げられます。つまり彼らには死者の復活を信じる土壌がすでにあったのです。
であれば、ここで語られているのは何でしょうか。それは、主の死をどう捉えるべきなのか、どう理解するべきなのかと考え始めたのは、ユダヤ人ではないキリスト者のほうが先であった。しかしそれを一歩進めて、一歩踏み込んで復活信仰と繋げて考え始めたのはユダヤ人キリスト者だった。この2点がここで描かれているのではないかと私は考えます。
主は御復活について、ヨハネによる福音書においては、共観福音書ほどハッキリと予告なさいませんでした。ですので、弟子たちが御復活についてよく理解していなかったのも仕方が無いのかもしれません。しかし今、空の墓へと入って来て、中の様子を見て、彼らは主の御復活について確信を得るに至りました。もはやどちらが先だとか、どちらが後だなどということは問題ではありません。二人はともに家へと帰って行きました。
さて、福音書記者ヨハネは、ここまでこの「空になった墓」という物語を二人の弟子たちの対比を通して語ってきました。しかし、ここにはさらにもう一つの対比構造があります。それは、「弟子たちとマグダラのマリア」という対比構造です。
弟子たちが空になった墓について考え、墓の中を確かめ帰って行った後、彼女は何をしていたでしょうか。彼女はただ泣いていました。彼女は主のご遺体が安置されていた場所を墓の外から覗きこみます。すると二人の御使いが居ました。彼らはマリアに問います。
「なぜ泣いているのか」
マリアは答えます。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
彼女は主が復活なさったとは知りません。理解していません。弟子たちのように、考えて考えて復活の信仰を見出すということはできなかったのです。こう申しますと、まるで彼女には答えを自ら見付け出す能力において弟子たちに劣っているというような意味合いに聞こえるかもしれません。しかし振り向いた彼女が見たのは、主イエスでした。主イエスは、分からないと答えた彼女にこそ御姿を現わされたのです。
私には彼女の方が弟子たちよりもずっと優れた答えを導き出したのではないかと思えます。彼女はただただ泣きながら「分からない」と答えたのです。彼女は悲しみと不安を包み隠さず告白したのです。
主はマリアに問いかけます。
「あなたが探しているのは誰か」
マリアの答えは切実です。
「私の主を返してください」
悲しみの中から絞り出されるような彼女の願いです。
「マリア」
主は彼女の名前を呼ばれました。彼女の名を親しく呼ばれました。
彼女は自分が話している相手は園丁、つまり墓守であると思っていたので、なぜ面識の無いこの人が私の名を知っているのだろうと驚きます。しかし、瞬時に覚ります。
「主だ。」
たった一言です。たった一言、主が名前を呼ばれた。それだけで彼女は主の御復活を理解したのです。彼女は自分が今見ているのが、話をしている相手が復活された主であると、たった一言名を呼ばれただけで理解したのです。
マリアは主に触れようとします。しかし主はそんなマリアを制止なさいます。
「私はまだ父のもとへ上っていないのだから。」
主イエスにはきっと、父の御許でなさるべき何かがあるのでしょう。それについての説明はここではなされていません。しかし、マリアが何をなすべきかは明らかにされています。主にすがりつくのではなく、主を足止めするのではなく、「死によって主は終わってしまったのではない。父なる神の許に上られるのだ。」「御子は高く挙げられるのだ」と述べ伝えよとお命じになるのです。
そしてマリアは、「私は主を見た」と、主を証し、主の御言葉を弟子たちに告げました。
先ほど申し上げました通り、この物語には二つの対比があります。ペトロの場合と、「主が愛された弟子」の場合。そして弟子たちの場合とマグダラのマリアの場合。
三人とも主が前もって告げられた「復活」という言葉の意味をあまり理解していませんでした。弟子たちは後先になりながらも墓の中に入り、自ら求めて主の御復活を知りました。一方、マリアはただ泣いていました。すると復活の主イエスがマリアに御姿を現し、人々に聞かせるべき御言葉をお教えになりました。
私は弟子たちの内のどちらが優れているのか、あるいは弟子たちとマリアと、どちらが優れているのかなどとは考えません。弟子たちにはその出自に違いがあり、また「復活」に思い至る過程で多少の差はありましたが、二人とも自ら墓の中に入り、見て復活を知りました。しかしマリアもまた、いえマリアこそ誰よりも先に墓に来て、墓の中にこそ入りませんでしたが、主を見て、信じたのです。復活の信仰へと至る道は弟子たちとマリアとでは違いました。それは人によって違うのです。しかし、そこに優劣はないのです。
確かに比較しようと思えばできるのです。「どのような信仰理解がより救いに近いのか」ですとか、「信仰理解」によって救いへと導かれる歩み方と、苦しみや悲しみの中で体験した「信仰体験」によって救いへと至る歩み方と、どちらが「本物の信仰なのか」などという議論は、やろうと思えばいつだってできます。しかし、そんな議論には何の価値も、意味も無いのです。
たしかにここでは主は悲しむマリアに御姿をお見せになりました。マリアは直接に主を知りました。主が御姿をマリアに現わされたのは、彼女がすべてを放り出すほどに嘆き悲しんでいたからでしょう。そしてその悲しみを、途方に暮れている自分自身の姿を包み隠さず主に告白したからでしょう。
しかしこの先、弟子たちも同じように何かに苦しみ、その苦しみの中に主を見出すのです。弟子たちもマリアも、主の死によって未来への希望を失いました。今までの道のりに価値を見出せなくなってしまいました。また主の亡骸が失われたためにマリアは今、何をしていいのかわからないという不安にまといつかれていました。弟子たちも同じ苦しみを味わったでしょう。
苦しみの比較には意味がありません。信仰に至った道のりの比較には意味がありません。意味があるのは、あなたが主の御復活を信じられるか否かです。復活の主があなたをそこに伴われる、あなたはそれを信じますか。それだけが大切なのです。あなたが、あなたと共に歩んでくださる主を見ることができるか。それだけが大切なのです。
主はあなたを招いておられます。主はあなたの名を呼んでおられます。もしかしたら今あなたは悲しみの中にあるかもしれない。もしかしたらあなたは苦しみの中にあるかもしれない。もしかしたらこの先、悲しみや苦しみがあなたを待っているかもしれない。そんな時、あなたは目の前に立っておられる主の御姿が見えなくなってしまうかもしれない。でもね、今は気付けなくても、その時は気付けなくても、必ず気付く時が来るのです。主が名を呼んで下さる時が来るのです。そしてその時、悲しんだあなただからこそ伝えられる御言葉があるのです。
信仰は私たちに、悲しみは悲しみで、絶望は絶望で終わらず、その向こうに希望が用意されていると教えます。主イエスが死の殻を破って復活され、それによって弟子たちに希望が与えられたように。私たちは常に希望を前に見て歩むのです。