2022年4月24日
ヨハネによる福音書 20:19-31
「主の傷跡」
主イエスは御復活の日、まずマグダラのマリアに姿を現されました。男性の弟子たちの内、シモン・ペトロともう一人の弟子は御復活に気付いていますが、イエスさまの御姿を目にしていません。それ以外の弟子たちに至っては、まだ何も知りません。弟子たちは引き籠っていました。主が捕らえられたあの時から「その男を十字架に付けよ!」と叫ぶ群衆の怒号が都中に響いていたので、イエスさまの身に何が起きたのかは想像がついていました。
もしかすると、人々はイエスさまだけではなく、弟子である自分たちにも危害を加えようとするかもしれない。それが恐ろしくて弟子たちは身を隠し、扉を閉じて鍵をかけ、息を潜めていました。
恐怖は彼らの神経を鋭くします。物音がするだけでも彼らはうろたえ、何も起こらない、誰も襲って来ないと分かるまでは心が引き絞られるような思いだったでしょう。彼らは今、あらゆるものを拒絶しています。
そんな弟子たちの家に、するりと優しい何かが入り込みました。不安に震える弟子たちの間に立って優しさで包み込み、安らぎを与える誰か。その方は「平和があるように」と仰いました。
示された御手の釘跡と、脇腹にある槍で刺された傷を見て、彼らは気付きます。主イエスです。十字架の上で死なれたはずのイエスさまが来てくださったのです。
主は改めて仰います。「あなた方に平和があるように。」
続けて主は語られます。「私がこの地上で行った業の数々は、父が私にそうせよとお命じになったからなされたのだ。私は神さまの御心によってこの地上を旅したのだ。それと同じように今、私はあなた方が何をなすべきか教えよう。行くべきところに行き、様々なところを回って、私が命じた通りにしなさい。」
それから主は弟子たちに息を吹きかけられました。
「息がかかる」ですとか、「息がかかった者」という表現があります。これは強い者の庇護を受けている、あるいは影響の下にあるということを意味する慣用句ですが、とても面白い表現だと思います。あまり良いニュアンスで用いられない言葉ですが、今日のこの箇所に託されたメッセージの半分くらいは、この言葉によって理解出来ると思います。
息を吹きかけられた弟子たちは、この瞬間からイエスさまの庇護のもとに置かれ、力を受けたのです。
この「息」という言葉は、旧約聖書においても大切な役割を果たしています。ヘブル語ではルーアハという単語ですが、「息」という意味の他にも「風」や「霊」あるいは「心」という意味をもっています。創世記の1章2節には、「神の霊が水の表を動いていた。」と記されています。このルーアハは他にも大切なところで出てきます。ノアの箱舟の出来事において、逆巻く水を治めるために神さまが送られたのはルーアハ、風でした。
イエスさまは弟子たちに息を吹きかけられました。もちろんヨハネによる福音書はギリシャ語で書かれていますが、今ご紹介したのと同じニュアンスを持っていると考えて良いでしょう。つまりイエスさまは弟子たちに、ご自身の霊を注ぎ、力と守りを与えられたのです。霊を注がれた弟子たちはイエスさまの御心を与えられ、御心を行う者とされました。
この時、彼らに与えられたのは、罪を赦すという権能でした。罪の何たるかを御存知なのは神さまお一人だけですから、何を罪と定め、何を赦せるのかを決められるのは神さまお一人でしょう。しかし、罪に関わる二つの権能のうち、罪の赦しについては、弟子たちにもそれが出来るようにしてくださいました。
イエスさまは単に「赦せる」と示されただけではなく、進んで赦すようにと命じておられます。何故でしょう。イエスさまの父である神さまの願いは、福音を告げ知らされた者全てがイエスさまを信じることだからであり、独り子イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることだからです。全ての人に「赦されている」と知らせ、全ての人をご自身の愛の内に招く、これがイエスさまの願いなのです。そのために、弟子たちに、私たちに赦す力をお与えになったのです。
赦しは、離れていた心を取り戻させます。赦しとは、一緒に居られなくなっていた人と再び一緒に居られるようになるための通り道です。神さまにとっては、大切な子どもを取り戻すための道。神の民にとっては、互いの気持ちを知り、受け容れ合い、共に神さまを賛美できるようになるために、一緒に通るべき道です。
「赦し」とは、離れて行った心、あるいは離れそうになっている心に目を向け、声を聞く、そして共感するという道のりを共に歩んだ末に到達できるゴールです。その人と同じ立場に立って、同じ思いをしてみる。同じ疑問を持ち、同じように惑い、同じように寂しさを感じれば、どのような言葉が求められているのかを見出すでしょう。そこで見付けた言葉を互いに掛け合えば、私たちは許し合えるのです。
ここに一人、思いを共にする人を見付けられ寂しい思いをしている男がいます。
弟子たちの中でもトマスは復活のイエスさまを見ていませんでした。トマスもまた、恐ろしくて家に引き籠っていたはずです。そこに他の弟子たちが来て、口々に「私は、私たちはイエスさまを見た」と言うのです。それなのに、彼だけはイエスさまを見ていませんでした。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い、喜ぶ弟子たちとは距離を置いています。
私はトマスを慎重な実証主義者だと考えていますが、この時の彼は孤独を感じていました。蚊帳の外に置かれてしまったのです。
これは完全に想像ですが、復活された主イエスの御姿を見た弟子たちは浮かれていたのかもしれません。喜んでいるのですから。でもこの時、「主を見た」という弟子たちの言葉がまるで自慢しているかのようで、トマスにとっては鼻についたのかもしれません。もしそうであるとするならば、弟子たちはトマスの心に寄り添えていなかったと言えるでしょう。彼に対する弟子たちの態度が、もう少し違うものであったならば、彼も孤独を感じないで済んだのかもしれません。
もちろんイエスさまはトマスを孤独のままに放っておきはしませんでした。それどころか、他の弟子たちに対する以上に丁寧にご自分を表されます。イエスさまはトマスに寄り添われました。
「この手をご覧。実際に触れてごらん。脇腹に開いている傷に指を入れてみても良いんだよ。私は確かに、十字架に上ったイエスだ。私は復活した。この事を信じなさい。」
イエスさまはトマスを取り戻すために、「傷跡を確かめる」という道のりを共に歩かれました。それが、御自分に痛みを強いる道であったとしても、トマスのために痛みを忍んで、共に歩み、トマスを取り戻されました。
他の弟子たちと比べると、トマスの歩んだ道は遠回りだったかもしれません。しかし、誰よりも先に、はっきりとトマスは復活されたイエスさまを「わたしの主、わたしの神」と告白しました。
私たちには共に歩む道が、道を共に歩む時間が必要なのです。いきなり結論を述べられても、それが受け容れられるとは限りません。互いに確かめ合いながら共に歩む時間が必要なのです。遠回りに思えても、共に歩む時間が必要なのです。
今日の聖書日課の内、30節から31節はヨハネによる福音書の結論です。
「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
福音書記者ヨハネは、ここに私たちを連れて来るために、イエスさまの御言葉を書き記しました。結論を出す前に、プロセスを共に体験する。このプロセスが私たちの理解を助けるのです。
私たちはいつもこのプロセスを、この道のりを歩んでいます。まだまだゴールは先です。
私たちにはイエスさまが一緒に居て下さいます。とても嬉しいことです。周りに居る人たちの心に寄り添えるよう、私たちの心に優しい風を吹き込んで下います。私たちの心にイエスさまが入って来て下さいます。
今、世の中は、人々の心は荒んでいます。そんな中で私たちは願っています。この人たちの心に優しい風が吹き込むように。全ての人の心にイエスさまが入ってくださるよう願って祈ります。