復活節第3主日礼拝説教

2022年5月1日

ヨハネによる福音書 10:7-18

「羊の門」

主はご自身を「羊の門」に例えられました。これは一体どういう意味でしょうか。

主を通してこそ私たちは福音の中に迎え入れられる。主によって私たちと神様との関係は修復される。一言で言ってしまうとそういうことです。ですから、そういう意味でこの言葉を解釈するということは正しいと思います。しかし、他にも何かが隠されているのではないかと私は考えます。

放牧を終えた羊たちは、囲いの中に入れられます。この時羊飼いたちは持っている杖を漢字の人の字のような形に組んで、その下を羊が通るようにしたそうです。どうやらこの、組んだ杖のこと、あるいはこの杖をもつ羊飼いを「羊の門」と呼んだようです。羊飼いたちは何のためにそのようなことをするのでしょうか。杖はあまり長くはありません。そこを通れる羊は、一度に一頭だけです。つまり羊たちは一頭づつ囲いの中に入っていきます。

そして羊飼いたちは、羊が門をくぐる際に、その羊が放牧されている間に怪我をしたりはしなかったか、素早く調べました。羊飼いたちは羊一頭一頭をよく知っていました。ヨーロッパの文化圏においては、羊は主に食肉用として育てられ、副産物として羊毛が取られていますが、当時のパレスチナにおいてはむしろ羊毛を取ることこそが主な目的であって、羊を屠って肉とするのは、決して日常的なことでは無かったようです。ですから羊飼いたちは羊たちと長年付き合うことになります。その付き合いは私たちが想像するよりも深く、それぞれの羊に名を付けて呼ぶことは当たり前に行われていました。羊の方でも自分の名前と、その名を呼ぶ者の声を知っていたそうです。

名を付ける、呼ぶとは、彼を彼として、彼女を彼女として知るということです。名を付けて呼ぶ時、そこには感情の交流が生まれます。思い入れが生じるのです。関係性が生じるのです。逆に、思い入れを生じさせないようにしなければならない時には、人は名を呼ばないようにします。例えば番号で呼んだりするようにです。羊飼いたちは羊それぞれに名を付けていました。羊飼いは羊のことを良く知っており、また羊も羊飼いのことを良く知っていたのです。

私たちが「主イエス」という門をくぐる時、主は私たちの名を一人づつ呼んで、招いて下さいます。そして私たち一人一人に心を配って下さいます。主は私たちのことを良く知って下さるのです。そしてその門をくぐって囲いに入った私たちを豊かに養ってくださいます。さらには、出入りの自由をも与えて下さいます。主は私たちを養ってくださいますが、それは囲いの中に閉じ込めるようなやりかたによってではありません。私たちは何の恐れも抱く必要なく、自由に出入りすることができるのです。この門を通って主の囲いの中に入った者は、主の庇護のもとで縛られず、自由の中で養われるということです。

  人はどうしても何かに縛り付けられてしまいます。それは外部からの拘束かもしれませんし、自分自身で作り出した拘束かもしれません。誰かによって、時には自分で作り出した決めつけが、私たちから「さまざまな角度から物事を眺める自由」を奪い取ってしまうのです。そして、物の見方を固定されてしまったものは、物事の本質や真の価値というものに至ることができなくなってしまうのです。しかし門である主は、主イエスの語る福音は、私たちをそういう「不自由さ」から解放するのです。

門である主に対して、主より先に来た者はそうではありませんでした。主は彼らのことを盗人であり強盗であると言われます。このように極めて厳しい言葉で批判された人々とは誰でしょうか。

好ましくない近付き方をする者に対しては誰でも不快感と不信感を持ちます。自分の望んでいない形で自分の居場所やテリトリーに入って来る者に対しては警戒し、場合によっては恐怖を感じます。

羊は外敵に対しては強烈な突撃をします。しかし、それは羊が勇敢だから、強いからではありません。羊の攻撃は追い詰められた恐怖への叫びです。自分や群れが危機的状況にあると気付いた時、羊は外敵に突撃します。羊たちはこの人は好ましくないと思った相手には捨て身の攻撃をします。

羊が従うのは、いつも優しく語り掛けてくれる方。自分を知っていて、いつも気に掛けてくれる方です。主イエスという門を通ってこそ、私たちは命へと至ることができるのです。私たちは盗人の声には従いません。

次いで主はご自身を良い羊飼いであるともおっしゃいました。当時の羊飼いにとって、羊は文字通り自分の命を賭してでも守るべき物でした。羊飼いは、ライオンや熊などの肉食獣や強盗などから羊を守りました。彼らはなぜ、そこまでして羊を守ろうとしたのでしょうか。広く言われているのは、羊飼いは羊に対して責任を負っていたからであるという理由、つまりは職業意識、プロ意識です。

しかし、それだけではないと私は考えます。羊飼いが命を賭けてでも羊を守ろうとした理由、それは彼らが羊を良く知っていたから、そして羊も羊飼いを知っていたから。互いに強い絆で結びあわされていたからではないでしょうか。その絆は、関係は、もはやプロフェッショナルとしての職業意識を超えた、家族愛によって結びつけられていたのではないでしょうか。

これに対して、自らの羊を持たない、雇い人は違います。彼が気にするのは、自分の利益です。彼らにとって羊は家族ではありません。だから、危機が迫ると「命あっての物種」とばかりに、簡単に羊たちを見捨てて逃げてしまうのです。

主は私たちのことを良くご存じです。肉による実の家族同様に、あるいはそれ以上に私たち一人一人のことを良く知って下さっています。深く私たちを愛して下さっているのです。だからこそ、十字架の上で命まで捨ててくださったのです。

その主が言われます。

「わたしには、この囲いにはいっていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」

福音という囲いの外に、まだ多くの羊が居るのです。その羊たちを何とか囲いの中に導こうと、主は努めておいでなのです。その羊たちは、言い換えますと私たちが手を届かせられずにいる、言葉を届かせられずにいる人々のことです。

主はあなたを養って下さっていますか。主はあなたをご自身の囲いの中において下さっていますか。もちろん主はあなたを囲いの中で豊かに養って下さっています。しかし、主はさらに囲いの中に羊を増やそうとしておられます。羊は次々に増えてゆくのです。新たに加えられる羊は、それまでに囲いの中にいる羊にとっては異質な者です。異なる者たちです。しかし、彼らもまた、主の声を聞いて導かれた者たちです。主によって知られ、また主を知る羊なのです。主は彼らをもこの囲いの中に導き、私たちと共に、ひとつの群れとなさるのです。

それまでに居なかった者たちを、異質の者を受け入れようとする時、私たちにはそれまで持っていた自分の価値観を脱ぎ捨てなければならない時が来ます。それまでの物の見方や価値観に固執することが許されなくなる時が来ます。それは私たちにとっては冒険です。変化です。誰だって変化は不安な物です。

自分が変化しなければいけない時、どうしてもそれを避けたくなるのです。しかし、私たちは変化を恐れる必要はありません。主は私たちに自由を、門を出たり入ったりして色々な角度から物事を見、またさまざまなところに生えている草を、言わば味見する自由を与えて下さっているからです。私たちがどこに居ても、どのように変化しても、主は変わらず私たちを守り、養って下さっているからです。

17節から18節で主は命について語っておられます。ここでいう命という言葉には、二つの意味があるのではないでしょうか。一つには、文字通りの生命そのもの。そして、そこからさらに展開して、この地上での、肉の身体を持った者としての自由という意味。命を捨てるとは、十字架の上で命を捨てることによって、この地上での自由を捨てるということ。そして再び受ける命とは、神様との関係のこと、そしてそれによって得られる霊的な自由のことを指しているのではないでしょうか。人は死に支配されています。誰も肉体の死からは逃れられません。しかし主イエスはその死をも支配なさいます。自ら命を捨て、また自ら命を受ける自由を、究極の自由を持つ方なのです。

肉による自由を捨て、霊の自由を得た時、何者をも恐れる必要が無くなり、新たに囲いの中に入ってきた羊たちを、共に群れをなす者として受け入れるのです。そして、このあらたな羊たちを迎え入れる時、私たちは単に牧草によって養われるのではなく、より豊かに養われるのです。単に命を受けるだけではなく、豊かに、より豊かに命を受けるのです。

羊の門とは、私たちを良く知り、福音によって養い、自由を与えて下さる主イエスです。それに対して、盗人たち、強盗たちは羊から、私たちから自由を奪い、自分たちの都合の良い場所に、支配下に置こうとする者たちです。

自由は固執しません。私たちはすでに主という門をくぐり、草を食んでいます。自由を与えられています。間もなく囲いの外から、羊たちが主によって導かれ新たに入ってきます。その時に私たちは何かに捕らわれたような心で彼らを迎え入れるのでしょうか。主は私たちに自由を、捕らわれない心を与えて下さったはずです。ですから、囲いの外からの羊が私たちの群れに加えられ、ひとつにされて、さらに豊かにされることを、祈り願いましょう。

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