復活節第5主日礼拝説教

2022年5月15日

ヨハネによる福音書 15:1-11

「主はブドウの木」

今日読まれた御言葉は私にとって思い出深い箇所です。私は子どもたちに聖書のお話をするにあたり、「しげじい」と名付けた白熊の指人形との対話形式を用いていますが、青年時代に初めて「しげじい」と一緒にお話しをしたのが、この箇所でした。今でもその内容を覚えています。

「皆さんはブドウの木を見たことがありますか。枝を広げ、甘くてちょっぴり酸っぱい実を付けたブドウの木を見た時、私はたくさんの人が集まって、幸せな気持ちで一杯になっている様子に似ているなぁと思いました。みんなが幸せになるためにはどうすれば良いと思いますか。喧嘩をしたり、誰かを仲間外れにしたりすると、その人の心はしょっぱい涙で一杯になってしまいます。神さまはイエスさまを通して優しい気持ちを私たちに与えてくださいますから、互いに優しい心を持って、仲良くしましょう。そうすれば、そこに居るみんなの心には幸せで一杯になります。」

大まかに言うと、このようなお話でした。極めて単純なメッセージです。

旧約聖書では、イスラエルはブドウの木、あるいはブドウ畑として描かれていました。イザヤにおいては「主の万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のこと。ユダの人こそ、主が喜んで植えたもの。」エレミヤにおいては「あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えたのは、この私だ。」とあるように、主はその民を良い実を結ぶ木の代表であるブドウになぞらえて語られました。ブドウの木はイスラエルの民の象徴となっていました。

硬貨を作る際、周辺の国々ではその硬貨を鋳造させた王のレリーフをデザインするのが一般であったのに対し、イスラエルの民が鋳造した硬貨にはブドウの木がデザインされていました。それは、イスラエルの民を支配し、豊かにするのは他ならぬ主である、主との関係こそがイスラエルの民にとっての宝であるというメッセージでした。ブドウはユダヤ人の心の一部であり、ユダヤ民族の象徴でした。

今日、イエスさまは御自身を「まことのブドウの木」と仰いました。敢えて「まことのブドウ」と仰るのであれば、偽のブドウの木があるのでしょうか。旧約聖書において、ブドウの木はいつも堕落の概念と一緒に用いられています。イザヤが語るメッセージの中心は、ブドウ畑が荒れ果ててしまったと言う点にあります。

エレミヤはイスラエルが野生のブドウの木に退化してしまったと嘆いています。ホセアは、イスラエルが偽りのブドウの木であると訴えました。旧約聖書に描かれているブドウの木は、本来豊かであるはずなのに堕落してしまったイスラエルの姿をも描き出しているのです。

イスラエルの人々は、自分たちの民族こそ神に祝福された者、選ばれた者であり、その祝福と選びは血統によって受け継がれていると考えました。

それに対してイエスさまは断言なさいます。

「人は血筋や出生、属する民族によって神の民となるのではない。歴史を見よ。イスラエルの人々は預言者たちが叫んだように、堕落してしまったではないか。人は血統によって救われるのではないのだ。私と親しい、生きた交わりを持ち、私を信ずることだけがあなたを救う。なぜならば私は神のブドウの木であり、あなた方は私に繋がれている枝でなければならないからだ。」

救い主であるイエスさまとの交わりこそが人を神の民とするのです。

ブドウは水はけの良い土地を好みます。また、日光を出来るだけ多く浴びられる斜面がブドウ栽培には好ましいとされています。畑が水はけの良い斜面にあると、その畑の土は雨が降ると斜面の下に流されてしまいます。そのためドイツのブドウ農家では、雨が降る度に流れ落ちた土を繰り返しシャベルで持ち上げます。ブドウは手間のかかる植物なのです。

またブドウは枝の剪定が重要となります。良い実を結ぶ枝のみを残し、その他の枝を払ってしまわなければ、一粒一粒を充実させられません。払った枝を何かに利用できるかと言うと、材木としては柔らかすぎて使い道がありません。イエスさまはこれらのことを良く御存知で、神さまと人との関係はそのようなものであると語られます。

もし私たちが神の民であることを望み、神さまのお役に立ちたいと願うのであれば、イエスさまを通して与えられる神さまの恵みに敏感になりましょう。私たちに注がれる神さまの優しさを、私たちに繋がる人たちにどんどん伝え、分け与えましょう。それが良い枝であるということです。

人を不幸にし、道を踏み外させるのは何か。それは無関心です。子どもはいつも「見て、見て」と言います。大人が子どもの様子を良く見れば、その子どもは満足します。その満足は子どもに自信を与え、子どもを真っすぐに育てます。逆に大人が子どもを見なければ、子どもは自分に関心を持てず、自信を得られず、心を充分に育てられなくなってしまいます。それは大人も同じです。誰も自分に関心を持ってくれないと思った瞬間に、その人は愛との繋がりを断たれてしまうのです。

だから私たちは互いに関心を持ち、互いを良く見、声を掛け合うのです。折に触れ、「お元気ですか」、祝い事があれば「おめでとうございます」、悲しい出来事があれば「大丈夫ですか」。そして、神さまとの繋がりが保たれるように「お祈りしています」と声を掛け合うのです。

就職活動をしている人にとって「お祈りしています」という言葉は「あなたは不採用です。当社との関係はこれで終わりです。」という断絶の言葉を和らげるために用いられていますが、私たちキリスト者にとっては違います。

私たちにとって「お祈りしています」という言葉は、「あなたとの関係を目に見える形で続けられなくなったとしても、私は神さまを通してあなたとの関係を保ち続ける」という意思表示なのです。実際に私たちは日々の祈りの中でその人のことを覚えて祈るのです。

この世の旅は長く、時には荒れ野をさまようような気持ちにもなります。旅する私たちに必要なのは、神の民として約束の地を目指す私たちに必要なのは、神さまへの愛と、互いへの愛です。主の日ごとに、私たちは注がれる愛を確かめるために神さまに近付き、神さまの御言葉を聴くのです。

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