2022年5月22日
ヨハネによる福音書 16:12-24
「悲しみの向こうに」
2週間前にヨハネによる福音書13章が読まれてから私たちは夜の闇の中に居ます。13章から16章は、イエスさまが最後に弟子たちと食卓を共にされた際に語られた決別説教です。今日読まれた箇所では既にイスカリオテのユダはイエスさまを売り渡すために群れから離れており、今、闇は暗さを増していると言えます。その暗さと相反するかのように、イエスさまの御言葉は熱を帯び、力を増しています。ついに説教の主題はイエスさまとの別れの後、つまり十字架での死の後に弟子たちが経験するであろう出会いに及びます。それは聖霊との出会いです。
今日読まれた箇所の少し前の7節と8節でイエスさまは聖霊を「弁護者」と表現しておられます。イエスさまが天に昇られた後、弁護者として聖霊が弟子たちのところに降ると予告しておられます。そして、聖霊が世を裁き、罪と義とを明らかにすると言われました。弟子たちに真理を悟らせ、世界を作り変えられると仰るのです。
これまでのところ、弟子たちはイエスさまと旅をし、さまざまな出来事を体験してきました。ふしぎな業を見、教えを聞いてきました。これにより弟子たちは少しずつ作り変えられていましたが、決定的な変化には至っていませんでした。
人の成長はゆっくりと進みます。いきなり高度な学問を学ぶ人はいないでしょう。最初は絵本の読み聞かせから始まり、少しずつ言葉を身に付け、論理的な考え方ができるようになった後に、簡単な足し算・引き算を覚えます。九九を覚えると掛け算や割り算ができるようになります。そしてついにはさまざまな定理を用いて複雑な推理や推測ができるまでに至るわけです。
もちろん、ある瞬間に閃くように新たな何かを発見するということもありますが、それはほとんどの場合、閃きとはそれまでに培ったいくつかの事柄の内、無関係に思えた物がまとまりを持って繋がる出来事であると思います。
楽器を演奏する方であれば何度も経験すると思います。それまではぎこちない動きしかできず、間違えてばかりで、上手に演奏することのかなわなかったフレーズが、ある時を境に滑らかに演奏できるようになる。それは失敗という蓄積が作ってきた道が開通するという経験です。
人間は失敗から正しい道を見出します。子どもも失敗をします。気持ちをうまく表現することができず、感情が爆発すると、手を出してしまったり、噛みついてしまったりすることがあります。そんな時、大人はその子に教えます。例えば「言葉で伝えれば良いんだよ。『やめて』とか『こういう風にしてほしい』と言えば分かってもらえるよ。」という風にです。
子どもたちはそんな経験をしながら、誰も傷付けずに、自分も傷付かずに済む生き方を身に付けます。それまでは失敗の連続です。大人は子どもの失敗を回避させるために存在するのではありません。もちろん危険な失敗についてはそれを予防しますが、経験すべき失敗は実際に経験させ、その後には失敗を執り成すのが大人の役目です。
人間はいつも失敗をしてきました。時には神さまの怒りに触れるほどの失敗もしましたが、その都度執り成しを祈る者が居ました。
ソドムの町は「極めて邪悪で罪深い」と記録されています。ソドムの罪を訴える声は大きくなり、神さまの耳に届きます。神さまはソドムの罪を確かめるために遣いを出されますが、この遣いと出会ったアブラハムはソドムのために執り成しました。それも執拗と思われるほど根気強く、粘り強く神の遣いから譲歩を引き出します。
この時は残念ながらソドムの人々が全く悔い改めなかったために町は滅ぼされてしまいましたが、神さまの願いは罪ある者を滅ぼすことではなく、罪ある者から罪を取り除き、正しい道へと引き戻すことです。
歴史は罪深い人間に対する神さまの姿勢を伝えています。聖書の御言葉は神さまが諦めることなく私たちを取り戻そうとしておられると教えます。神さまは常に御心を私たちに明らかになさいます。
その手段こそ、主イエスによって、また聖霊によってなされた啓示です。
私は経験していないので、にわかには信じられないのですが、昔の教会ではほとんど福音書ばかりが読まれていて、旧約聖書や使徒書は滅多に読まれなかったと言われています。しかし、旧約聖書も使徒書も、もちろん福音書も全てが聖書を構成しています。全ての書物が大切なメッセージです。
旧約聖書は「なぜ私たちに福音が必要なのか」を教えます。福音書は福音そのものと、福音が語られていった過程を教えます。福音を聴いた後に人は聖霊を受ける。聖霊が注がれた人は真理を悟らされ、根本から作り変えられるのだとイエスさまは今日、仰いました。
その瞬間に人間の価値観はひっくり返されて、神さまの御心がその群れを治め始めるのです。
その時に大切なのは御言葉に繋がっていることです。「どこで」とか「誰を通して」と言うような条件は全く無関係です。アブラハムの執り成しは失敗だったでしょうか。確かにソドムは救えませんでしたが、アブラハムの祈りは無意味ではありませんでした。神さまを愛する者は「邪悪」とまで言われたソドムの罪をすら悲しみ、救いを願って祈る。そのことを教えてくれました。ソドムが滅ぼされたのは根本的な問題としてソドム自身が悔い改めていないからであって、誰が執り成そうともソドムは裁きを受けたはずです。しかし、今や何者にも優る方が私たちのために、世界全体のために執り成しをしてくださいます。
裁きにより自らの罪深さを知った人は、深い悲しみに打ち沈みます。主はその人をそのままにしておかれません。弁護者である聖霊が、人と人との間に働く神の霊がその人を取り戻し、繋ぎとめるのです。それは、私たちの想像を超えた手段、それまでの価値観を超えた所にある力によってなされるのです。
ヒヨコは卵の中から一所懸命に殻を突いて割って、初めて外に出られます。硬い殻を破るために必要な力は大きく、ヒヨコの苦労は並大抵ではないでしょう。ヒヨコは苦しんで外に出るのです。それでも、外に出た喜びは、そこに待っている広い世界はその苦労を遥かに超えるものであるはずです。
価値観がひっくり返る中で、物の新たな見方を得ようとすれば、それほどまでに大きな苦しみを経なければならないのです。しかし、ヒヨコは気付かないかもしれませんが、実は親鳥も外から殻を突いてヒヨコを助けています。
間も無く復活節が終わり、聖霊降臨節が始まります。聖霊の季節、教会の季節がはじまります。読まれる聖書の書物も福音書から使徒書へと変化します。使徒書は「福音を受けた人々の群れはどのようになるのか」と教えています。
絶え間なく変化する世の中で、私たちもまた作り変えられます。私たちは世によって作り変えられるのではなく、世に主の御言葉を語り掛けるために、主が私たちを作り変えられるのです。