2022年5月29日
ヨハネによる福音書 17:1-13
「キリストの願い」
礼拝において神さまからのメッセージが語られた後、メッセンジャーによって祈りが捧げられます。教会学校の礼拝でも、幼児園の礼拝でも、また主日の礼拝でも、神さまの御言葉が説き明かされた後には祈りが捧げられます。イエスさまは十字架に登られる全日の夜、弟子たちと食事をしながら最後のメッセージを語られました。今日読まれた箇所は、メッセージの後に捧げられた祈りです。
最後のメッセージには、これまでにイエスさまが語ってこられたメッセージとは違う点があります。それは、ごく限られた人々にのみ語られたという違いです。
この違いは、このメッセージが語られたのが過越しの食事の場であり、それは民家の一室という、決して広くはない場所で語られたためでもありますが、それ以上に別れの前に弟子たちと特別な時間を過ごし、特に弟子たちのために言い残したいと言うイエスさまの願い、弟子たちに対するイエスさまの心配りから生まれた違いでしょう。
メッセージが語られた後、イエスさまは天を仰いで祈りをささげられました。祈りを捧げる時、私たちは多くの場合、目をつぶり、若干下を向いて祈りますが、古代にあっては手を上に向け、天を仰ぐ姿勢が祈りの姿として一般的でした。それは、祈りが上に居られる神さまとの対話であると意識されたために生まれた祈りの姿です。
イエスさまは神さまとの対話を始められました。まず「父よ」と呼び掛け、神さまと御自身との関係を言い表します。それは親しさの表れであり、父親が子を愛し守る、子が父親を愛し敬い、父に従うのと同様に、神さまがイエスさまを愛し、守ってこられたこと、イエスさまが神さまを愛し、敬い、神さまに従ってきたことが表現されています。
ここに至るまでの旅で、イエスさまは時折「まだ私の時は来ていない」と仰っていました。振り返れば、カナの婚礼の時には葡萄酒が無くなったことを告げるマリアに「まだ私の時は来ていない」と言われ、仮庵の祭りの直前には「ここを去ってユダヤに行き、弟子たちにその業を見せてやれ」という兄弟たちにも同じことを仰いました。またこれまでにもイエスさまは二度にわたってエルサレムの神殿で捕らえられそうになりましたが、福音書記者ヨハネはこの時にも「まだ時は来ていなかった」と記しています。
その時が来たとイエスさまは祈りの中で仰いました。この時は、人間が自分の望みによって定める時、自分が「今こそこうであってほしい」と願って定める時ではなく、神さまが定められた時です。神さまが今夜を最期の夜と定められました。この時を境に、人々はイエスさまを見られなくなります。そして、イエスさまは徐々に、この世への直接な働きかけをなさらなくなります。翻って考えるならば、この時から「直接にはイエスさまを見ることなく信じる時」へと移っていくのです。その境目に立っているのが十字架です。
私たちは十字架に登られたイエスさまに栄光を見出します。なぜ十字架が栄光なのでしょうか。一見すると敗北と挫折の姿としか思えません。捕らえられ、尋問され、辱められて鞭打たれ、その末に処刑される。それは栄光という言葉からは程遠い姿です。実際、弟子たちですらイエスさまが捕らえられたという出来事、また十字架の上で死なれたという出来事の故に躓いています。
栄光とは何か。神の栄光とは何か。それは、「神さまの御心こそ真実である」、神さまがいつでも私たちのために心を配り、心を砕いてくださっている、その表れが栄光です。主の祈りの最後に私たちは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」と祈りますが、それは「わたしたち皆がいつでも神さまの御手の中にあって守られて生きている。わたしたちは神さまの御心こそ真実であると信じます。わたしたちはいつでもあなたをほめたたえます。」という、神さまの恵みの確認と恵みへの応答です。
神さまは私たちを支配する力をイエスさまに与えられました。力は自由であり権利です。イエスさまに私たちを自由にする権利が与えられました。イエスさまはその力を、私たちに永遠の命を与えるために用いられます。
永遠の命が肉体的な意味での生命がずっと続くこと、体が死ぬことなく生き続けることを意味するわけではないと私たちは知っています。では、永遠の命とは何でしょうか。ここでイエスさまは、「永遠の命とは唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と仰いました。
「知る」とは知・情・意を超えた全人的な繋がりを意味しています。それは本を読んで多くの知識や情報を得ることではありません。聖書の言う「知る」とは、自分が神さまによって知られていると気付くことです。
以前、羊の門のお話をしました。その時に、羊飼いは羊が羊の門を通る時に欠けが無いことを確認し、またそこを通る一頭いっとうの状態を良く調べ、怪我が無いか、病気をしてないか目と心を配り、必要があれば手当をすると申しました。ここで言う「知る」とは、神さまと私たちが、この羊飼いと羊の関係にあるという事実への気付きを言うのです。
神さまは、私たちのために心を配る働きをイエスさまに委ねられたのです。イエスさまから愛されているということに私たちが気付く。その気付きを通して、神さまが私たちを愛してくださっていると気付く。それが、「知る」という言葉の意味です。
この祈りが捧げられた時、その場に居合わせたのは12人の弟子たちだけでしたが、この祈りその物はあらゆる人のために捧げられています。「あなたは子に全ての人を支配する権能をお与えになりました。」とありますが、直訳すると「全ての肉を支配する権利」となります。「全ての肉」とは全人類を指す言葉です。イエスさまは御自身の力が全人類に及ぶこと、つまりイエスさまの愛は全人類に及ぶべきであることを、弟子たちに告げられたのです。
イエスさまは人を量的にはとらえられません。神さまから委ねられた、それぞれの人に働きかけ、それぞれのために心を砕いてくださいます。
そして祈ってくださいます。
「彼らは御言葉を守りました」
果たして私たちは神さまの御言葉を守れているでしょうか。とてもそうだとは申せませんが、イエスさまは「御言葉を守った」と言って下さいます。
私たちは正しく生きられません。それでも、イエスさまの御名を呼び、イエスさまにすがる時、イエスさまは私たちに「もうそれだけで充分だ」と言って下さるのです。何故ならば、イエスさまが望んでおられるのは、私たちが罪の意識に苛まれて神さまから遠ざかることではなく、罪深くともとにかく神さまに近付くことだからです。全ての人を「わたしのもの」と呼び、神さまに対しては「わたしのものはすべてあなたのもの」と、わたしたちそれぞれのことを、例外なく執り成してくださるのです。
だから私たちは、この世の中がいかに生きにくい世界であったとしても、イエスさまの御名を呼び続けている限り、生きていられるのです。
イエスさまは「わたしはもう世にはいません」と仰いました。この直後、イエスさまは十字架に付けられ、死なれます。御復活の時には弟子たちと再会なさいましたが、世に対しての働きかけはもうなさらず、弟子たちに全てを告げられた後、天に挙げられました。
再会の時、イエスさまは何と仰ったでしょうか。
「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」
と仰いました。私たちは世に遣わされているのです。世の人々にイエスさまの御名を告げ知らせるために遣わされているのです。私たちは全ての人に「生きにくさを感じているのであれば、ここに来なさい。ここにはあなたの居場所がある」と告げ知らせるのです。
そして、私たちはそれを本当のことにしなければなりません。この教会を、誰もが受け容れられ、誰にとっても居場所がある場としなければなりません。それは簡単ではないでしょう。それでも、求め続ける限り、ゲームセットにはなりません。打ちのめされても、打ちのめされてもわたしたちは立ち上がって挑戦を続けるのです。そうやって私たちは、私たちのために祈りを捧げてくださったイエスさまに応えるのです。