2022年5月8日
ヨハネによる福音書 13:31-35
「新しい掟」
弟子たちと最後の食卓を囲まれた際、イエスさまはイスカリオテのユダにパンをお与えになりました。みんなで囲んでいる食卓において食べ物を特に与えるのは、特別な友情の印でした。それからイエスさまが「しようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われると、ユダは外に出て行きました。ユダはイエスさまを裏切り、大祭司に売り渡すために出掛けて行きました。「しようとしていることをしなさい」との御言葉は、ユダにこれを促す言葉でした。イエスさまは神さまの御心がこのようにして成就されるためのスイッチを押されたのです。もうここからは後戻りはできません。ただただ、十字架に向けて歩くだけです。神さまの望みを自分の望みとして行われた瞬間、決意の瞬間です。
イエスさまは「自分はこれほどまでに神さまに従順なのだ」と、これを誇られたでしょうか。イエスさまは一言も誇らず、代わりに栄光について弟子たちに教え始められました。
栄光とは、一般には褒め称えられ、名誉を得ることと理解されています。イエスさまは「今や、人の子は栄光を受けた。」と仰いました。イエスさまは誰に褒められ、どのような名誉をお受けになったのでしょう。今、ここに居る者は誰一人としてイエスさまとユダとの間に交わされた一連のやり取り意味を知りません。ですから、この場に居る誰かがイエスさまを褒め称えたり、高く掲げたりはしません。
イエスさまがお受けになった栄光は、ただ神さまとの間にのみ存在しました。神さまがイエスさまのご決断をご覧になり、認められました。
苦しみに満ちた死への道を歩むべきか、これまでにもイエスさまは深く悩んでこられました。その末にイエスさまは神さまの「苦しむ人々を救いたい」という御心の成就を望まれました。イエスさまは強いられて決意なさったわけではありません。御自身の意志として、またご自身の願いとしてご自分を差し出されたのです。
これからもイエスさまは悩まれます。死の恐怖がイエスさまを苛みます。苦しみつつ、十字架を背負って歩まれます。それでも、イエスさまは自らを差し出すという決意を曲げられません。それを神さまは御存知です。他の誰が知らなくても、神さまは御存知です。神さまは自らの命を差し出そうとされるイエスさまの決意を良しとしてくださいました。それは、誰から受ける褒め言葉にも優る栄光です。イエスさまは最も良いものを捧げ、神さまはそれを何にも優る良いものとして受けられました。
昔、献金の際の祈りについて議論をしたことがあります。「今そなえる献げものを清めてお受けください。」と祈る時の「清め」が主題となりました。「清めてくださいと祈るということは、私たちがそなえるものは穢れているのだろうか」という問いが立てられたのです。
結論としては、私たちの献げものは穢れていません。何故ならば、私たちがささげるものは元を正せば神さまからいただいたものであって、神さまは清いもののみを私たちに下さるからです。では、ここで言う清めとは何でしょうか。それは、「人の思いを取り去り、御心のままにお用いください。」という意味です。
神さまに何かを差し出したならば、その献げものについて私たち僕らはもう顧みない方が良いのだと思います。自分が捧げたものについても、また誰かが捧げたものについても、顧みない方が良いのです。でないと、余計な悩みや苦しみが生まれてしまいます。捧げた後は神さまの領分です。私たちはただ、神さまの御心が行われるようにと願って捧げるだけです。
私たちが献げものとして供えるものは、この聖餐卓に置かれた瞬間に私たちの思いを離れて神さまの御心のために用いられるのです。だから、ここから先は私たちが悩む必要は無いのです。私たちが求めるべきは、私たちがどうしたいのか、何をしたいのかではなく、私たちは何をすべきなのかという問いと、それへの答えなのです。周りの人にどうあってもらいたいかではなく、私が神さまのためにどうあるべきかを求めるべきなのです。
イエスさまは御自分を献げものとして供えられました。イエスさまは私たちを愛してくださいました。神さまの御前に献げものとして御自身を供えられるほどに、限りなく愛してくださいました。聖餐卓は弟子たちと共に囲んだ食卓であると同時に、イエスさま御自身を献げものとして供えられた祭壇です。
この食卓を囲む私たちはイエスさまの肉にあずかり、イエスさまの血という何ものにも代えがたい恵みを頂くのですから、これ以上何かを得ようと求める必要はありません。私たちが求めるべきなのは、この恵みを他の人にも与えるための道筋であって、私たちがこれ以上の恵みを人から得る手段ではありません。私たちが人々を愛することを求めるのです。私たちの分は、恵みも愛も、神さまからたっぷりいただいているので充分です。私たちは、私たちのために誰かを働かせるのではなく、誰かのために私たちが働くことを求めるべきなのです。
私たちはイエスさまのように自分の命を差し出すことはできません。それでも、誰かのために何かを割く時、それが神さまの栄光を表すことになるのです。それが神さまへの最良の献げものとなるのです。
私たちのためには、イエスさまが働いてくださっているのですから。
私たちに与えられた掟は、私たちに誰かを、あるいは世の中を私たちの理想に近付けよとは命じていません。私たちは神さまの御心がなされるまで、互いを受け容れつつ、愛し合って、共に恵みにあずかり、共に祈るのです。