聖霊降臨節第2主日礼拝説教

2022年6月12日

ローマの信徒への手紙 8:12-17

「神を父と呼ぶ」

今朝はパウロがローマの教会に宛てて記した手紙から、神の言葉を聞こうと思います。

パウロは生まれながらにローマの市民権を持っていました。つまりパウロの父か祖父、いずれにせよ父方の直系尊属に何らかの手段でローマ市民権を獲得した者が居たということです。ローマ帝国は、その傘下に入った国々とその国民たちに、権利や義務を、ローマの一員として、市民として与えました。

また、一定の条件を満たせば、属州民にも市民権を与えました。彼らに与えられた権利は、参政権、選挙権や被選挙権であり、婚姻する権利、財産を所有する権利であり、裁判権と公訴権、つまりローマの法による保護を受ける権利でした。また同時にローマの軍団兵になる権利を持ち、そのことによって納税の義務を免れていました。

パウロがローマ市民権を持っていたという事実が、ローマは異民族にも開かれた国家であったということを証明しています。

パウロは明らかに自分が持っている権利、ローマ帝国が、ローマの法が彼に与えた権利を良く知っていました。例えば、ローマ市民は裁判の結果によらないで処罰されることが無いということや、ローマ市民は皇帝に直訴する権利を持つということなどをハッキリと主張する箇所が使徒言行録にはあります。

ローマ帝国と言いますと、「キリスト者を迫害した国」というイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。確かにネロなどは残酷な迫害を行ったことで有名ですが、その背景にはユダヤ教徒による讒言があったのではないかと言われています。この時代、最も積極的にキリスト者を迫害していたのはユダヤ教徒でした。パウロ自身、熱心なファリサイ派の一員として教会を迫害していたことは皆さんも良くご存じの通りです。

無論、ローマに対して私たちが抱いているイメージが全て濡れ衣であるとは申しません。3世紀後半、4世紀初頭くらいになりますと、ローマ帝国は国策としてキリスト教徒を迫害し始めますが、少なくとも、パウロの当時はそうではありませんでした。パウロがローマ帝国に対して持っていたイメージは、今わたしたちが持っているような、「狂暴で無慈悲な国」というイメージではありませんでした。

また、多くの国を征服し、圧政によって苛斂誅求を極めた悪い国、キリスト者を迫害した残酷な国家というイメージも付きまといますが、それはあまりにも一方的な見方です。

こう申しますと、「いや、ユダヤは重い税に苦しんでいたはずだ」と反論する方がおいでだと思います。たしかに、ユダヤに税が課されていたことは事実です。しかしそれは、ローマの属州民に通常であれば課せられていた、ローマ帝国の国防に協力する義務を免除されたことへの対価、血を流さないことへの対価だったのです。

  ローマ帝国とは、義務と権利の関係が極めて明確に法で定められた国家でした。そして今日、パウロは私たちに義務について説きます。パウロの言う義務とはなんでしょうか。ここでは「肉に従う…肉に対する義務」という言葉が出てきます。

パウロはこのローマの信徒への手紙を通じて、「人の罪と神の義」について論じています。御子イエスによって福音がもたらされるより以前には、人は律法に従って生きることによって義とされると考えられていました。しかし主イエスは、福音によって、十字架の上での死と復活とによって神の救いを完成されました。これは律法の廃棄ではなく、律法の完成でした。翻って考えますと、「人は律法によって義とされる」と考えていた人たちの律法は、皮肉にも未完成のものだったのです。

その未完成の律法は人間に多くの義務を負わせました。「なになにしなさい」ですとか、「なになにしてはならない」などという掟です。その内容は、決して間違ったことではありませんでした。確かに、その通りに生きられたなら、正しく生きることができるでしょう。でも、律法に完璧に従って正しく生きられる人間は居ません。律法そのものは良い物なのです。律法は聖なるものなのです。ところが肉にとらわれた、自我ですとか欲求などにとらわれている私たち人間は、律法に従って生きることができないのです。すると、そのとたんに人を良い方向へ導こうとする律法は、私たちの罪を裁く剣となってしまうのです。

しかし今や、私たちはキリスト・イエスに結び付けられています。今日読まれた箇所の少し前の所でパウロが「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」と記しているとおりです。神の御子が私たちと同じ肉の体を持って生まれ、生き、そして罪無くして罪を負って死なれたことの故に、私たちから肉の罪が取り除かれたのです。相変わらず私たちは弱く、肉にとらわれたままですが、御子イエスが罪そのものを処断なさったので、私たちは神の愛の内に生きることができるのです。

そしてパウロは言います。「私たちには一つの義務があるが、それは肉に対する義務ではない。」この箇所で言うところの義務とは、二通りの解釈の仕方がありうると考えます。欲求を満たすことによって人間は生きるのではないのだと言う解釈と、人間は肉に対する義務、行いをどのようにするかということを定めた律法によって生きるのではないという、二通りの解釈の仕方です。私は、この解釈のどちらか一方が正しく、もう一方は間違っているとか、例えばその時に応じて一方の解釈で理解されるべきだという風には考えません。むしろ、これら二つの解釈が同時になされるべきではないかと考えます。

人間にはさまざまな欲求があります。時にそれは肉体的な欲求であり、時には精神的な欲求です。それは肉体の、自我の生存に必要な欲求でもあります。しかし、それらを満たすことに汲々としていたのでは、本当の命を失なってしまうと言うのです。そして同時に、肉の体を私たちがどのように用いるべきかを定めた律法によっては、その要求を、律法の要求するものを満たすことができない私たちは罪に定められなければならない。

律法は私たちを罪から救い得ない。確かに律法は私たちに正しい生を送らせようとするものですが、それによって命を得ることはできないとも言っているのです。律法の要求に応えようと四苦八苦したところで、到底私たちは自分の行いによって命を得るには至らないのです。唯一私たちを生かすものは、神の霊なのです。私たちの主、イエス・キリストが十字架の上での死によって私たちに与えられた、私たちの内に宿らせてくださった神の霊が私たちを生かすのです。

神の霊は私たちの霊を、私たちの本質を作り変えます。自ら望んで愛を受け、愛を与える者へと作り変えます。愛を行うことができる者へと神の霊によって作り変えられるのです。神の霊は私たちを、私たちの自由な意思によって愛を行う者とするのです。神の霊によって作り変えられたものは、もはや自分の欲に縛られません。律法によって求められているから愛を行うのでもありません。私たち縛り付けようとする、いかなる力からも自由です。欲望の奴隷になることも、律法に従うことを強いられることもありません。そしてそのことによって、何のわだかまりもなく、父なる神の愛を受けられるようになるのです。

人は自分の本当の姿、他の誰にも見せたことのない、自分の本性を思う時、こんな自分が無条件の、無限の愛を本当に受けて良いのだろうかと不安に思います。その不安が私たちを再び昔の縄目に縛り付けようとします。しかし、聖なる御霊は、神の霊は私たちを導き、少しづつ作り変え、ついには父なる神が私たちを確かにご自身の子どもとして愛して下さっていると、確信させてくださるのです。

「愛を行うはずなのに、愛を行えていない」と不安になる時があるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の上での死によって私たちに与えられた、この霊こそが、例え私たちが弱くても、私たちの内なる霊と共に、私たちが間違いなく神さまの子どもであるということを証してくださるのです。誰に対して証しするのでしょう。私たち自身にです。

この霊によって、私たちは神を「父よ」と呼ぶことができるようになるのです。私たちは自分たちの行いによってではなく、キリストの霊によって、「神様は私を愛して下さっている」と確信させられ、そして私たちに「私は神を愛している」と告白させるのです。他ならぬ神の霊が私たちに証言します。私たちは神様の子どもなのです。

パウロは更に続けます。「もしも私たちが神様の子どもであるならば、相続人でもある」と。パウロは、私たちが神様の子どもであるならば、神様から相続をする権利を持つと言うのです。

  この説教の冒頭で私は、パウロはローマの市民権を持つ者で、またローマの法に対する知識をも有していたと申しました。そのローマの法では、養子縁組に際して、つまり子どもの主権が他者に移るに際して、その子のそれまでの生活は完全に拭い去られ、例えその子どもが借金をしていたとしても、その負債は綺麗に消え去り、その子どもは新たな家庭で、その家での完全な権利を与えられ、あたかも新しい人として生まれたかのようにみなされました。そして、仮にその新しい家庭に実子が居たとしても、養子を迎えた後に実子が生まれたとしても、養子として迎え入れられた子どもの権利は完全に保証され、養父が亡くなった際には相続者となりました。

養子縁組によってその家庭に迎え入れられた子どもは、それまでの家において持っていた物をすべて失います。古い家で持っていた権利も負債も無くなり、新たな人として新しい家庭に生まれました。新たな家における全ての権利を得ました。そのことは同時に、新たな家に対する責任を負うということをも意味しました。私たちは神様の子どもとしていただきました。言い換えるならば、私たちへの主権は、これまで私たちを支配していた肉から神様へと移ったのです。

これまで私たちを戸惑わせていた罪、神様への負債はすべて綺麗に消え去りました。これからは神様の子どもとされ神様から与えられる恵みを全て受けます。そして同時に、これからは負うべき重荷があるならばイエス様と共にそれを負うのだと、パウロは言います。

イエス様は地上でのご生涯で、苦しむ人と共に苦しみ、癒そうとなさいました。何かに縛られている人を解き放ち、ご自身と共に歩ませようとなさいました。罪に苦しむ人を赦そうとなさいました。人を愛そうとなさいました。そのことの故に、主は苦しまれました。

あなたが重荷を負う時、同時にイエス様もあなたの重荷を負って居られます。あなたが苦しむ時、同時にイエス様も苦しまれます。軛について以前少しお話をしました。2頭の牛が鋤などを引く時、首に掛けられる横木を軛と言います。軛は正しく用いられなければ牛の呼吸を妨げて実力の半分も出せなくなってしまいますが、正しく軛を用いるならば、重い鋤をも楽に引けるようになるのです。

私たちが重い荷物を引く時、軛の一方をイエス様が引いてくださっています。それに気付いた時、私たちは正しく軛を用いられるようになるのです。そして私たちはイエス様が神さまを父と呼ばれるのと同様に私たちも神さまを父と呼びます。

ここに集う私たちはイエス様を通じて神さまの子どもとされました。神の家族とされました。だからイエス様が誰かの軛と共に引かれるのと同様に、私たちも誰かの軛と共に引くのです。苦しみの時、神の家族を頼ってください。互いに頼ってください。それをこそ、主は望んでおられるのです。私たちは御言葉と、パンとによって一つの家族とされているのです。私たちには、神を父と呼ぶことがゆるされているのです。

家族として、互いを助けましょう。そして、家族として、助けてもらいましょう。そりゃ、多少の遠慮はあるでしょう。血の繋がった家族の中にさえ、遠慮はあるものです。しかし、大切なところで遠慮するのはやめましょう。頼りましょう。父と、御子と私たちは家族なのですから。

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