2022年6月19日
ローマの信徒への手紙 4:23-31
「主の御名によって」
足の不自由な男を癒したペトロとヨハネでしたが、この不思議な業を見て集まった人々にイエスさまが示された福音を説いていました。このことを不愉快に思った祭司やサドカイ派の人々は二人を逮捕し、尋問します。ところが、無学であるはずの二人が堂々と答え、また足を癒された人を実際に見ては、彼らも何もいえませんでした。そこで、祭司たちは二人に「イエスの名によって話したり、教えたりしないように。」と脅した上で釈放しました。
二人は釈放されるとすぐに仲間たちの集まっているところ、集会の場に戻ります。そこで、祭司長や長老たちに何をされ、何を言われたかを話します。
二人に対して祭司長たちが言った言葉をまとめると、神殿はイエスさまの名によって教えることを「非合法とはできなかったが、禁じた。」ということです。つまり、法の枠組みの外で圧力を加えられるという非常に危険な状態に置かれたのです。
法の枠組みの中で禁じられたり規制されたりしたのであれば、何が障害となっているのかを明確に認識できるので、その法に触れないように活動すれば良いのですが、法の枠組みの外で禁止されたのでは、力を持つ者たちの判断次第で今回のように逮捕されたり、危害を加えられたりする可能性があります。
無制限に、その場その時の判断、判断というよりも気分で取り締まり、法に定められていないような処罰を加えられるようになった。その対象は信仰です。何が理由となって危害を加えられるか分からないという恐怖がイエスさまを信じて集まった人たちの心に打ちこまれました。打ち込まれたはずでした。
権力から脅されたのであれば、まず自分の身の安全を確保するためにその場を離れたくなるのが人情でしょう。危ないからもう止そうと、集会から離れていく人が、故郷に帰る人が居てもおかしくはありませんが、誰一人としてその場を去る者は居ませんでした。
イエスさまが捕えられたあの夜には、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように、逃げてしまいました。あの夜には、弟子たちの心はバラバラになってしまいました。今は違います。困難が目の前に迫っているというのに、かえって一致をしたのです。心を一つにしたのです。そして何をしたか。
権力から圧力を、それも危険な圧力を掛けられた者は、意気消沈しそうなものです。萎縮しそうなものです。仮にその後も活動を続けるとしても、まず対策を練るのが常識的な反応でしょう。どうすれば、活動を続けられるだろうか、知恵を絞るでしょう。あるいは、ほとぼりが冷めるまではおとなしくしていようと考えるのではないでしょうか。
この常識的な考え方に反して彼らの最初の行動は、祈りでした。しかも、その内容は、例えば目の前に迫った苦難を取り除けてくれというような内容ではありませんでした。
まず言葉となって出て来たのは、万物の創造主である神への信頼でした。何があっても、この地上において実力を持っている者たちが自分たちに対して敵対したとしても、神さまは必ず味方して下さる。そう信じますと、言下に告白したのです。
続けて出て来た言葉は、全ては神の御手のうちにあって、今自分たちが置かれている状況もまたそうであると信じるとの告白です。この時、彼らは自分たちがこの世の力ある者たちによって圧力を掛けられるであろうことは、ダビデの口を通して聖霊が予め教えていたと言っています。この言葉は詩編の第2編に記された御言葉を指しています。
この当時の人々は、礼拝の中で詩編を、今私たちが讃美歌を歌うように歌っていました。聖歌隊を二つのグループに分けて、私たちが詩編を交読するように、あっちから呼び掛けたらこっちから応答するというような、高度に計算された歌い方もされていたようです。
音楽には力があると良く言われますが、私もその通りだと思っています。例えば「証しをしてください」と言われると「何を話せばいいのか分からない」と悩む人も多いでしょうが、「好きな讃美歌は何ですか、どんな点が好きですか」という問いには答えやすいのではないでしょうか。音楽は扉を開けるカギになるのだと思います。そして音楽は言葉を心に残す力も持っているのだとも思います。
私自身、聖書の暗唱は苦手です。ニュアンスは覚えられるのですが、正確には覚えられないのです。ところが、これに節回しがついて音楽になると覚えられるのです。
「神よ私の内に清い心を作り、揺るがぬ霊を私の内に新しくしてください。」という御言葉があります。これはもっと続くのですが、詩編の51編の12節から14節に記された御言葉です。他にも、「今私は主の救いを見ました。」は、ルカの2章29節から32節にあるシメオンの賛歌です。私の出身教会であるルーテル教会ではこれらに節をつけて毎週の礼拝で歌っていました。音楽は私たちの心を動かし、メッセージを残す力を持っています。メロディーは鍵となって、何かの折りに私たちの口を突いて出て来るのです。
自分たちに掛けられた圧力に気付いた人々は詩編の2編を思い起こしました。苦難を目の前にして、詩編の2編を思い起こしました。ここでは神が立てられた救い主に対して国々の王が逆らう様子が歌われています。また、この王たちに対する神の怒りを語られていますが、最後には「幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は」と、苦難の中にあって苦しむであろう者たちを慰め、力付ける言葉で終わっています。
ここから読み取れるのは、苦難を前にした人々が固く持っていた希望、「神さまは私たちの傍に居て下さる」という希望です。詩編が歌っているような苦しみの中に自分たちは放り込まれるだろう。それでも、神さまは必ず苦しみには慰めを与え、私たちを救って下さると信じている。そう告白しているのです。そして、その前提の上に立って、臆することなく御言葉を語れるようにしてくださいと願っているのです。
ここで私が注目したいのは、彼らが願った内容です。自分たちに加えられる圧力を取り除けてくださいとは祈っていません。圧力を加える者を打ち倒す力を与えてくださいとは祈っていません。圧力を加える者を罰してくださいとは祈っていません。ただ、苦難に屈することなく、御言葉を語れるようにしてくださいと祈るのです。
彼らは自分たちの力でそれが出来るとは考えていません。かつてペトロはイエスさまに「ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しています」と言いました。この時、彼は自分の勇気によってそれが出来ると考えていました。実際には、まさにそれが出来る時、一番大切な時に逃げ出してしまいましたが、あの弱かった弟子たちは、こんなにも強くなりました。
今、彼らが立っているのは自分の力の上にではありません。彼らは今、自分たちの置かれている状況を全て神さまに委ね、神さまの力によって立ち向かおうとしているのです。強いのは、弟子たちではなく、神さまです。
この弟子たちに神さまはお答えになりました。彼らが望む通り、聖霊をお与えになりました。この聖霊によって、弟子たちは力強く語れるようにされました。
私は時々思う事があります。それは、私たちは自分と、自分を通して働かれる神さまの御腕、神さまの力の関係を捉え損ねているのではないでしょうか。私たちはへりくだろうとするあまり、私たちの内に働く神さまの御力をも小さく捉えてしまってはいないでしょうか。
私たちは小さな者ですから、神さまの前でへりくだるのは当然です。しかし、へりくだる余り、私たちを信頼して注いでくださった神さまの御力を用いることにまで消極的になるのはいかがなものかと思うのです。神の祝福を、私たちを通して語る事に消極的なのではないかと危惧するのです。
神さまは私たちに、死に立ち向かう力すら与えて下さる。そのことをもっと信じて良いのではないかと思うのです。私たちは、まさに今わの際に居る人に、迫りくる死の現実から目を背けさせるのではなく、神さまが共に死に立ち向かって下さるのだと宣言することなのではないかと思うのです。それがプロテスタント教会には出来ないのです。
そういう点で、わたしはカトリックを尊敬します。彼らは死に臨む人と共に歩むからです。もちろんプロテスタント教会も同じように望み、またそのように努力しますが、意味合いが違います。
彼らは、「これからあなたは死のうとしているが、あなたの傍にはイエスさまが居られる。」とハッキリ言います。カトリックは死から1mmたりとも逃げない。カトリック教会が常に正しいとは言いませんが、死と向き合う彼らの姿勢は私たちも見習うべきなのではないかと思います。
私は言いたいのです。「あなたは今日、イエスさまと一緒に楽園に居る。イエスさまがそう約束してくださった。」と。それは、全ての被造物に与えられた約束であり、それを伝えることは私たちキリスト者に与えられた使命なのではないか、これを伝える力をこそ、私たちに与えて下さったのではないかと。
苦難は私たちに信仰を吟味し、確信を与える機会となり得るのです。目の前に迫った苦難に、どのように立ち向かうか、それが問題なのです。
今日、弟子たちはどのようでしたか。絶望しましたか。一人で立ち向かいましたか。何をしましたか。誰に頼りましたか。何を願いましたか。
あらゆる苦難を前にする私たちを、今日の弟子たちの姿が励まします。