2022年6月26日
使徒言行録 16:16-24
「捕らえる者、囚われた者」
パウロは宣教の旅に出発しました。第2回宣教旅行です。この旅にはシラスが同行しましたが、途中からはテモテも加わりました。そして、16章8節では一行がトロアスの町に入ったと記されていますが、10節から語り口調が変化します。そこまでは「パウロは」というように伝聞調で記述されていますが、10節からは「わたしたちは」、と著者本人の体験として記されています。つまり、トロアス以降は使徒言行録の著者であり、また福音書記者の一人でもあるルカが旅に加わったのだと分かります。パウロたちは次にフィリピの町を訪れ、数日間滞在しました。このフィリピで彼らは祈りの場所、つまりユダヤ人たちの集会場に行き、集まっていた女性たちにイエスさまの福音について話をしました。するとリディアという紫布を扱う女性がイエスさまを信じ、洗礼を受けました。そしてパウロ達を自宅に招き、逗留させました。パウロ達はフィリピに滞在している間、この家を拠点として度々集会場に通うようになりました。
ある日、パウロ達が集会場に行こうと歩いていると、一人の女性と出会います。この女性は占いの霊に憑りつかれていました。
古代において、占いは大きく二つの系統に分けられます。一つは統計学や天文学の一分野、つまり現代で言うところの科学的思考によって何らかの答えを導き出す、学問としての占いです。もう一つは、何等かの手段によって一種の忘我状態、トランス状態になった依り代が神の託宣を口寄せして伝えるという、オカルト的な占いです。
例えば、デルフォイという町にある神殿では、岩の裂け目から漏れ出る蒸気を吸って恍惚状態になった巫女が暗示的な神託を語り、そばにいる神官がそれを詩の形に直した上で、質問者に与えたと伝えられています。
この神殿はピュトンという大蛇に守られていると考えられていました。ピュトンを英語で言い換えますと、パイソンとなります。興味深いことに、今日の箇所に出てきたこの女性が行った占いも、このピュトンを語源とする動詞で言い表されています。
おそらく彼女は何らかの事情で精神の均衡を失っているか、病気によって妄想に囚われているものと思われます。彼女が口走るあらぬことを、この町の人々は神託として喜んで聞いていたのです。そればかりか、彼女の言葉を喜んだ者が彼女に与えた金銭を掠め取る連中がいたのです。
蛇は人を神さまから遠ざける原因を作った生き物です。その蛇がここでは、苦しむ女性を当たり前の人間関係、互いに思いやり、愛し合う関係から遠ざけ、彼女の苦しみを利用して搾取する者の餌食としています。彼女は見世物にされ、報酬すらむしり取られていました。
彼女はパウロ達と出会うと、連日パウロの後ろをついて歩き、叫びます。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」
これが幾日も続いたので、パウロは我慢できなくなったとあります。パウロは何に我慢できなくなったのでしょうか。福音を宣べ伝えようとするパウロの邪魔になったのでしょうか。私はそうではないと考えます。
彼女が言ったことは間違いだったでしょうか。彼女はパウロが神の僕でフィリピの住民たちに救いの道を宣べ伝えていると叫んでいました。これは間違いでしょうか。間違っていませんよね。それに、このように叫んでいる間は託宣を語れなくなりますので、彼女は稼げなくなります。食い扶持を減らしてまで、このように叫び続けた。パウロの後ろを歩きながら叫んだ彼女の言葉は占いの霊に言わされた言葉ではなく、彼女自身の苦しみの吐露であり、救いを求める彼女自身の叫びだったのではないでしょうか。
「たまりかねて」とありますが、この表現はパウロが怒っていることを示しています。パウロは数日間にわたって彼女の言葉を聞きました。もしかすると誰かから彼女の事情を聴いたかもしれません。そして彼女の置かれた状況を知ったパウロは怒ったのです。彼女に怒ったのではなく、彼女が置かれた状況に怒ったのです。そして、振り向いて彼女と向き合い、占いの霊、人を神さまから遠ざけ、人と人とのあるべき関係から遠ざける蛇を彼女から追い出したのです。
これを境に、彼女は忘我の状態にならなくなりました。あらぬことを口走らなくなりました。これに腹を立てたのは、これまで彼女から金銭をむしり取っていた連中です。彼らはパウロを捕らえて役人に訴えました。
しかし、彼らが訴えた口実は、彼らが被った被害とは全く別の罪状でした。きっと「病気で苦しんでいた人を治してしまったために、自分たちは利益を得られなくなってしまった」などとは訴えにくかったのではないでしょうか。そこで彼らは、パウロたちが町の治安を乱しているという罪を捏造しました。
果たしてパウロはフィリピの町を混乱させていたでしょうか。フィリピの町でパウロが活動した場所は、少なくとも今のところは祈りの場所、すなわちユダヤ人の集会場だけです。もし、問題となっている事件が起きた場所について考慮に入れるとしても、それは彼らが祈りの場所に向かう途中の道で起きた出来事で、しかも女性の方がパウロ達に繰り返しついて歩いたわけであって、被害があったとすればむしろパウロ達こそ被害者でした。
更にローマ市民が受け容れることも実行することも許されない風習とはいったい何のことを言っているのでしょうか。パウロはその風習とやらをどこで、誰に言い広めたのでしょう。パウロを引っ張ってきた連中は、何も明らかにせぬままにただただ、「パウロを処罰せよ」と訴えます。
群衆も一緒になってパウロとシラスを責め立てます。高官たちはろくな取り調べもせず、裁判にもかけず、二人の衣服をはぎ取って辱め、鞭で打ち、牢に投げ込みました。
この間、パウロは一切の弁明をしませんでした。鞭で打たれる痛みは相当のものです。鞭には皮膚も、その下にある肉も割いて血塗れにするほどの威力があります。数回打たれたら失神するほどだそうです。それなのにパウロは何の弁明もしませんでした。その機会すら与えられなかったのかもしれませんが、パウロは意図して沈黙していたのではないかと思います。
後にパウロは自分たちがローマの市民権を持つ者であることを明かします。ローマの法では、ローマ市民権を持つ者は裁判の判決に寄らずに罰せられることがあってはならないと定められていました。つまり、パウロを市民たちの前で裸にし、辱め、鞭で打たせた高官たちは罪を犯したことになるのです。ユダヤ人がローマ市民権を持つはずがないと侮っていた高官たちは青くなりました。
パウロはなぜ鞭で打たれる前に自分たちがローマ市民権を持つことを言わなかったのでしょうか。
もう二度と、フィリピの人々が彼女、占いの霊に憑りつかれていた女性に悪意をもって近付くことの無いように、知恵を使ったのだと思います。
もし今後、誰かが彼女のことを蒸し返そうとしたならば、当然パウロ達が裁判を受けずに鞭で打たれたことが明るみに出されます。パウロ達の背中にある鞭の傷跡が証拠です。パウロはその気になれば皇帝にすら直訴できます。もしそんなことになれば、高官たちは間違いなく処罰されます。高官たちが罰を逃れるためには、誰も彼女に手を出さぬように、特に彼女から搾取していた連中を見張っていなければなりません。きっと高官たちはパウロを訴えた連中、彼女から搾取していた連中を憎んだことでしょう。
パウロは敢えて辱めと痛みを負うことで、彼女の完全な解放を勝ち取ったのです。
ルカは福音書の中でイエスさまの言葉を記しています。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
パウロはこれを実践したのだと思います。病の苦しみに囚われた女性を癒すのみならず、完全な自由を得させる。そのために囚われ、痛みを負う。
なかなか真似できないと思います。それでも、私たちもこれに倣いたいと願い続けるならば、これほどのことはできなくとも、その機会があれば誰かのために自分を差し出せるようになる、そのようにしていただけると信じます。
私たちは、それを祈り求めつつ、歩むのです。