2022年6月5日
使徒言行録 2:1-11
「聖霊は炎のように」
教会の季節が変わり、聖霊降臨日、ペンテコステの朝を迎えました。御復活の後、イエスさまは40日を弟子たちと共に過ごされ、天に昇られました。それから弟子たちは、かつて十二人の使徒の一人であったイスカリオテのユダ、イエスさまを裏切り、その罪の重さに耐えかねて死んでしまったイスカリオテのユダに代わってマティアを選び、十二使徒の一人に加えました。
更に十日が過ぎ、五旬祭、ペンテコステの日を迎えました。日本語で「旬」とは、十日ごとの日のまとまりを指します。ペンテコステとは50日目を表す言葉ですので、五旬祭という言葉は正にピッタリの訳です。
この日、ユダヤの人々は小麦の借り入れを祝って夏の収穫祭を捧げていました。町中挙げて収穫を祝っている中にあって、弟子たちも一つの部屋に集まっていました。すると大きな風が吹くような音が聞こえて家中に響きました。神さまの霊、聖霊が弟子たちの集まる家に注がれたのです。この瞬間、時代が変わりました。
聖書に立って歴史を見ますと、人間の歴史は三つに区分けできます。一つ目は旧約聖書の時代。この時代には神さまが直接に人間に働きかけておられました。イエスさまがお生まれになると、御子の時代となります。「これは私の愛する子、これに聞け」との御言葉の通り、神さまはイエスさまを通して御業を行い、御言葉を語られます。そして、ペンテコステの日を境に聖霊の時代が始まります。弟子たちに神さまの霊が注がれ、教会を形成し、神さまは教会を通して御言葉を語り始められました。
使徒言行録は別名を聖霊行伝とか、聖霊の福音書と申します。使徒言行録に収められている物語は、使徒たちと初代の教会が聖霊の導きに従って福音を宣べ伝えた様子を描いた物語です。これはつまり、神さまがどのように私たちの教会を導かれたのか、私たちの教会のなすべき働きの原点がどこにあるのかを使徒言行録は語っているのだと言えます。
最初の教会は常に聖霊の導きを受けて重要な決定を下しました。例えば異邦人を受け容れる決断をするに際しては、聖霊はペトロに幻を見せ、ローマ軍団の百人隊長であるコルネリウスのもとに導きました。回心したパウロが伝道旅行をした時にも、常に聖霊がパウロを導きました。このように、教会の歩みは常に聖霊に導かれていました。
また、イエスさまを信じる者たちが危機に遭遇した時には勇気を与え、神さまの御心を求め続けさせたのも聖霊の働きでした。
聖霊が弟子たちに注がれ、「ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまでイエスさまを証しする」と、イエスさまはかねて約束されました。その聖霊が今、弟子たちの上に注がれました。
聖霊は炎のような舌の形で弟子たちの上に留まりました。この形が予感させる通り、聖霊が与えた力は言葉を発する力でした。弟子たちはそれぞれ、イエスさまを証しする言葉を発し始めました。それも単にイエスさまの証しであるというだけではなく、それぞれが外国の言葉でイエスさまを証ししていました。
これを聴いて驚いたのは、五旬祭をエルサレムで祝おうと集まって来た、外国に住むユダヤ人たちでした。いわゆるディアスポラのユダヤ人たちです。そして、中には外国人でありながらユダヤ教に改宗した人々も混ざっていました。
外国で暮らすユダヤ人であれば、家の外で話す言葉はその土地の言葉であっても家に帰ればユダヤ人が一般に使っていたアラム語を用います。また、週に一度の礼拝では聖書はヘブル語で読まれますから、使徒たちに敢えて外国語を話させなくても事足りたはずです。
しかし、外国人でありながらユダヤ教に改宗した人々は、改宗するに際してヘブル語を学んだでしょう。熱心に学んだとしても、生まれついてヘブル語を話す人々と同じように理解し、使いこなせるレベルに達するとは限りません。
この時、弟子たちに与えられた力とは、外国人に対しては、その人の言語、つまりその人が一番分かりやすい言葉で福音を宣べ伝える力だったのです。その人の心にまっすぐに入っていく言葉でイエスさまを証しする力が与えられたのです。
改宗するにあたって言語を習得させるということはつまり、その人をユダヤの型にはめるということです。言い換えるならば、「我々の教えを聞きたいのであれば、我々の一員になりたいのであれば、お前が私たちと同じように変われ」と、変化を強いられたのです。
それに対して聖霊の働きは違います。「あなたを迎え入れる用意を私たちがする。だから、あなたは在りのままでこの群れに入っていらっしゃい」とでも言うかのように、弟子たちを作り変えられたのです。
聖霊の働きは使徒たちから何かを奪ったでしょうか。使徒たちには伝える力が加えられましたが、彼らは何も失っていません。伝える力、伝えたい相手の心に沁みとおる言葉を手に入れると、新たな働き、新たな伝道の場を与えられ、新たな家族、新たな仲間を与えられ、二重三重の喜びが得られるのです。相手の立場に立った言葉、相手の気持ちを慮った言葉、相手を受け容れ、在りのままを良しとする言葉が与えてくれる恵みは、このように大きいのです。
聖霊なる神は今も私たちに働きかけてくださいます。ある瞬間を境に外国語を話せるようになる、という不思議な出来事が起こる可能性は低いと思いますが、思いが通じる感動は、私たちが望むならば与えていただけるでしょう。相手を受け容れ、相手の心に寄り添い、その人のための言葉を祈って求めるならば、聖霊なる神さまはその言葉を与えて下さいます。
違いを責めるのではなく、その人に苦しい思いや恥ずかしい思いをさせることなく、共に喜び、共に祈り、共に賛美を奉げられるひと時を味わう。そのような場を作る。これこそ、教会の目指すべき姿です。
子どもも大人も一緒になって喜べる場所。主義主張や出自の違いを超えて神さまの恵みを頂ける場。祈りによって建てられた教会は、教会がそのような場となること、日曜日の礼拝がそのようなひと時となるよう、祈りつつ求めるのです。