2022年7月24日
テモテへの手紙Ⅰ 3:14-16
「生ける神の家」
今日はパウロがテモテに充てて書いた手紙から聴きましょう。パウロは多くの手紙を記し、その中のいくつかは正典として新約聖書に収められていますが、その多くは各地の教会に充てて書かれた手紙です。そんな中にあって、テモテへの手紙とテトスへの手紙は個人に宛てて書かれた手紙です。
これらの文書の関心は特に教会の組織や信徒の導き方、つまり牧会にあるため、牧会書簡と呼ばれています。
テモテはパウロにとっては信頼できる協力者でした。使徒言行録によるとテモテはパウロの第2回と第3回の伝道旅行に同行しています。またテサロニケの信徒への手紙を見ますと、マケドニアなど、パウロが既に宣教を行った場所に派遣されて、そこに形成されていた集会の指導を行ったりもしています。
この手紙の冒頭でパウロはテモテを「信仰によるまことの子」とまで呼んでいます。パウロが心からの信頼と愛を注いだ、いわば愛弟子だったのでしょう。
この手紙を受け取った時、テモテはエフェソに居たと思われます。第1章の記述を見ますと、この当時エフェソの教会には、異なる教えを説いたり、作り話や切りの無い系図に心を奪われる人たちが居たようです。パウロはテモテに、これらの人々に警告するようにと命じています。
この手紙の真筆性、つまり本当にパウロが書いた手紙であるかという点については疑義が持たれています。というのも、文章の中には教会の組織について論じている箇所があるのですが、パウロが正に活躍していた当時にはまだ教会が組織立って運営されていたとは考えにくいからです。おそらく、成立は2世紀の初期であろうと推測されています。
しかし、だからと言って信仰的に価値が無い、信頼性に乏しい書物だというわけではありません。現存する最古の新約聖書の目録、つまり正典のリストであるムラトリ断片によれば、「個人的感情と愛情をもって書かれた。」と記されていますが、この愛情は単にテモテにのみ向けられているのではなく、テモテを通して、テモテが仕える教会に向けられていると考えるべきでしょう。その根拠こそ、今日読まれた15節にあります。
ここでパウロはこの書簡を書いた目的を、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」と述べています。
テモテだけが教会の中で生きていたわけではありません。指導者だけが教会の中で生きているわけではなく、そこに集う全ての人が教会の中で生きているのです。まして、万人祭司の教理を持つプロテスタント教会においては、教会に集う全ての人が互いに仕え合い、互いに牧会しあうわけですから、やはりこの手紙は全てのキリスト者に宛てて書かれたと言えます。
テモテへの手紙は生まれたばかりの教会の様子を私たちに伝えています。書記の教会は異教という海に浮かぶ孤島でした。ローマは皇帝を神々の中の一人として信仰し、またローマに属する諸々の民族はローマの信仰を受け容れた上で自分たちの民族の信仰を保つという、私たちにとってはアクロバティックな信仰の姿を持っていました。もちろんこれは彼ら多神教の文化に育った人々にとっては何らの抵抗もなく選択できる信仰の姿だったのですが、当然のことながらキリスト教会にとっては受け容れられない姿でした。
しかし、このような信仰的背景を持っていた人々が洗礼を受けてキリスト者となったのです。これはつまり、当時の教会に集まっていた人々は、ともすれば簡単に元の巣である異教的地盤に帰ってしまう、異教的な考え方にのめり込みやすい人々であったという特徴を持っていたと言うことも可能です。
初期の教会の信仰は、油断すると簡単に変質してしまったのです。だからこそ、パウロはこれらの町の教会にせっせと手紙を書き送り、また可能であれば信頼できる人をそれぞれの教会に派遣して、信仰の正統性を保つ努力をしていたのです。
神さまは教会を通して私たちを育んでくださいます。そこで語られる御言葉と、そこに集う聖徒の交わりが私たちを養います。それと同時に、教会は私たちに委ねられてもいます。委ねられたものはいつかお返しされなければなりません。お返しする日まで、私たちは委ねられたこの教会を良い状態に、つまり頂いた時と同じ状態に保たなければなりません。だからこそ、私たちもパウロが努力したように、教会が傾かないよう、間違っても崩れることの無いように慎重さをもって守らなければならないのです。
6章において、パウロは教会の中で異なる教えを説く者についてテモテに警告しています。
「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。」
主イエス・キリストの健全な言葉とは福音のことです。信心に基づく教えとは何でしょう。まず思い付くのは説教でしょう。実はそれ以外にも教えがあります。伝統的に正典には含まれないものの、それに次ぐ重要な教えとして読み継がれてきた書物があります。それを使徒教父文書と言います。使徒の時代と、教父、教えの父と呼ばれる正統的な信仰の基礎を築き上げていった著述家、教父、教えの父と呼ばれていた人々の時代を繋ぐ人々が書いた書物です。
使徒とはイエスさまから直接教えを受けていた人々です。その次に、使徒から教えを受けた人々はこれらの教えを文書の形で残しました。この文書を読んだ神学者たちが後に正統的な信仰の基礎を築き上げていったわけですが、この神学者を教父と言います。代表的な所ではアンティオキアのイグナティオスやユスティノス、リヨンのエイレナイオス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスなどが挙げられます。
この、使徒の教えを書き残した人々を使徒教父と言います。国分寺と立川の間にあるから国立と名付けられたように、使徒と教父の間にあるから使徒教父と名付けられました。
この使徒教父が残した文書の中に「十二使徒の教訓」と呼ばれる書物があります。この書物には初期の教会が守っていた礼拝の様子が記録されています。また私たちにとってはとても大切な、聖礼典について学ぼうとする時、学習者は必ずここにたどり着きます。残されている中で遡りうる最も古い源流がここにはあります。
例えば洗礼については、「洗礼についてはつぎのようにせよ。すなわち以上の事柄を全部語ってきかせてから、父と子と聖霊のみ名により流水の中で洗礼を授けよ。流水がない時には、ほかの水の中ででもよいし、冷水で授けることができない時には、温水ででもよい。またそのいずれもない時には、父と子と聖霊のみ名において水を三度頭の上に注げ。」とあります。皆さんが受けた洗礼も、これに従って執行されたはずです。
同様に、聖餐式の守り方についても記述があります。特に重要な記述としては、「主の御名において洗礼を受けた者の他には何人もあなた方の聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。」と厳しく禁止しています。現代の教会はこれに基づいて洗礼式と聖餐式を執り行っています。
こう申しますと、「いやそれは聖書ではないではないか。私たちプロテスタント教会は聖書にのみ依って立つのではないか」と反論される方も居られるかもしれませんが、その反論は的を外しています。何故ならば、ルターやカルヴァンの時代には使徒教父文書に記された内容は当たり前のこととして理解されており、聖礼典についての理解の土台、大前提となっていたからです。
規則には、文書化されている成文法と、文書化はされていない慣習法とがあります。慣習法とは「伝統的に定められている決まり」と言い換えられるでしょう。現代の法体系においても慣習法の有効性は認められていますし、日本基督教団においても、少なくとも神奈川教区は慣習法の有効性を前提としていくつかの決議を行っています。
聖礼典についてもまた、この伝統が土台となり、柱となっています。もし、この理解を超えて違うことを行うと、それは教会の一致を危うくする行為となります。
世界中に様々な教会がありますが、これらは神学的な違いがあったとしても、根っこの部分はひとつです。何が私たちを一つにしているのかと言うと、信仰告白と聖礼典における一致が、それぞれ違う教会の違いを含みつつも一つの教会としているのです。
日本基督教団などは、実はとても分かりやすい例だと思います。日本基督教団は様々な教派的な背景を持った教会の集合ですが、私たちは公同性、つまり普遍性、どこの教会に行っても同じ根っこを持っています。日本基督教団自身がそれを日本基督教団信仰告白において告白し、また教憲において定めています。
日本基督教団信仰告白には「教会は主キリストの体にして、恵により召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励つつ、主の再び来たりたまふを待ち望む。」とあります。これは毎月の第1主日に告白していますから、私たちはこれを知らないわけではありません。
教会は聖書と伝統という柱と土台によって立っているのです。聖書は神さまから与えられた土台です。伝統は、そこに集う一人ひとりの一致した信仰によって形成された柱です。逆に言うならば、信仰による一致に至っていない行為は逸脱だと言えるのです。
教会は一致した家族であるはずです。そして教会は神さまに召し出された者の集いです。神さまは全ての人を召し出しておられますが、全員がその御声に応えるわけではありません。教会とは、神さまからの召し出しに応えた人の群れです。召し出しに応えなかった人は神さまによって拒絶されたから応えなかったわけではなく、まだ応える準備が整っていない人々です。洗礼は救いの条件ではありません。御声に応えるという意志の表明です。
子どもを見ていると、準備が整っている子とまだ整っていない子の違いに気付きます。準備が整っていない子も、その時が来たならば人の言葉を理解し、それに応じて、例えば持っている玩具を譲ったり、遊びのルールに従って遊んだり、跳び箱を飛んだり、逆上がりができるようになったりします。
私たちは世に向かって声を上げるのです。主イエスさまが再び来られます。その時に備えて準備をしましょうと。