2022年7月3日
使徒言行録 13:1-12
「偽物たちとの対決」
偉大な宣教者であるパウロには、サウロというユダヤ人としての名前がありました。パウロという名前は、ギリシャ風の名前です。そしてユダヤ教徒としての彼は、キリスト教会を激しく迫害するものでした。しかし、彼に回心の時が訪れます。サウロは主イエスとの出会いによって目から光を失いましたが、しかし主はサウロを罰するために光を取り上げた訳ではありませんでした。光は彼から永遠に取り上げられたのではありませんでした。主はアナニヤをサウロのもとに遣わされました。するとサウロの目からうろこのようなものが落ち、彼の目は元通り見えるようになさいました。「目からうろこ」という諺の由来です。
サウロは迫害者でした。ステファノが殉教した時にも、迫害する側として事件に関わっていました。ユダヤ人キリスト者たちは、ステファノが殺された迫害をきっかけとして、地中海世界に散りぢりに逃げていきました。しかし、逃げ出した先で彼らは伝道し、教会を建てます。特に彼らが逃げ込んだ先の一つであるアンティオキアの町での伝道は、目覚ましい成果を上げていました。これを聞いたエルサレムの教会は、バルナバを派遣して、さらなる伝道を行おうとします。アンティオキアに着いたバルナバはタルソスに避難していたサウロをアンティオキアに招き、共に伝道の御業に仕える日々を送りました。
アンティオキアの教会は成長を続け、多くの人々が集まり、預言を行うことができる者、人々に教える能力を持った者などの人材にも恵まれていました。
ある日、アンティオキアの教会の人々が礼拝し、断食していると聖霊が彼らに臨み、バルナバとサウロを選び出し、かねてから決めておいた仕事に当たらせると告げました。その仕事とは、世界の方々を回り、宣教をするという仕事、宣教旅行でした。
アンティオキアの教会によって職務の委託を受けた二人は、手始めにキプロス島の東側にあるサラミスという港町に行き、そこで神の言葉を告げ知らせます。サラミスを振り出しに、キプロス島に点在するユダヤ人の会堂で宣教を続けついに彼らはキプロス島の西部にあるパフォスという大きな町にたどり着き、ある人に出会います。彼の名は、バルイエス。ユダヤ人で、魔術を用い、また神の言葉を預言する男でした。ただ、彼のする預言は本物の預言ではありませんでした。彼の生業とは、砕けた言い方をしますと、占い師です。
バルイエスは、占いによってこの地方を治める総督セルギウス・パウルスに仕える者でした。ローマ人と聞きますと、緻密な法体系を整備し、これによって広大な領土と属州とを治める、極めて合理的で理性的な人々というイメージを持ちます。また現代にまで残る遺跡や遺物を見ますと、ローマ人はとても高い技術を、つまり科学を持っていたことが良く分かります。そういう印象と、魔術・占いの類とはどうも相容れないように私たちには思えます。
先週も少しお話をしましたが、当時の占いには二つの系統がありました。科学の成果としての占いと、オカルトの系統の占いの二つです。
バルイエスの占いはどちらだったでしょうか。そもそも、ここでバルイエスの職業を魔術師と翻訳するから、話が分かりづらくなるのです。彼の職業はギリシャ語ではマギという言葉で表されています。
マタイによる福音書において、イエス様がお生まれになった時に東方から賢者たち、新共同訳聖書では「占星術の学者たち」と訳されている人たちが訪ねて来ました。ここで「賢者」ですとか、「占星術の学者」と訳されている言葉こそ、マギです。
当時の人々にとって占星術は単なる占いではありません。大規模な天文学に起源をもつ当時一流の科学です。星の運行を知ることによって彼らが得ようとしたのは、まず暦です。農業のスケジュールを立てるためには、暦が不可欠でした。実は私たち現代に生きるキリスト者にとっても、天文と暦は重要な繋がりを持っています。イースターは毎年決まった日に祝われるわけではありません。どのようにイースターの日が決められるかと言いますと、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日がイースターの日です。星の動きと私たちの生活は、意外と深い関係があるのです。
もちろんマギたちは星の動きから天の意思を知るために、今で言うところの星占いもしましたが、その目的は統治であり、また意思決定のためです。昼日中に太陽が隠れてしまえば、何も知らない民衆がパニックになるだろうことは容易に想像がつきますが、いつ日食が起こるのかをあらかじめ周知しておけばパニックは防げますし、かえって統治者の力を示す機会としても利用できます。しかしそのためには、天体の綿密で継続的な観察と運行の計算が必要になります。観測するための技術や、その結果をまとめるための数学が発展しました。
このように、マギの持つ能力とは当時最先端の科学でした。だからこそ、ローマ人たちは重要な決定を下す際には、マギの意見を求めたのです。今日の箇所に出てくる「魔術」という言葉は決してオカルトではありませんし、童話に出てくる魔法使いのようなイメージでバルイエスを捉えようとすることは誤りです。バルイエスは総督お抱えの科学者だったと考えるべきでしょう。
さて聖書は、この地方の総督であるセルギウス・パウルスを賢明な人物であったと記しています。つまり、何が正しいのかを知っている人物、また正しさを求める人物であったと解釈することができるでしょう。聖書を書く側の立場、つまり神の聖なる霊の立場から見て正しさを求める人物であるということはつまり、彼は信仰者であるか、主イエスの教えにシンパシーを感じている人物であったのではないかと推測することができます。いずれにせよ、彼は御言葉を求める人でした。だからこそ、バルナバとサウロとを招いて彼らから神の言葉を聞きたいと思ったのかもしれません。
しかし、地方総督を神の言葉から遠ざけようとする人物が居ます。8節にはその人物の名前が「魔術師エリマ」と記されていますので、二人目の魔術師が現れたのかと勘違いしてしまいますが、これはバルイエスの事です。エリマという名前は「魔術師」という意味でした。今でも私たちがその人を、例えば「お巡りさん」ですとか「校長先生」というふうに役職で呼ぶように、バルイエスは「魔術師」という職業の名前によって呼ばれていたのかもしれません。
さて、なぜバルイエスは総督をキリストの教えから遠ざけようとしたのでしょうか。彼はユダヤ人でした。この時代、キリスト者を最も激しく迫害していたのはユダヤ人です。ユダヤ教徒たちにとって、キリスト教徒は異端でした。ユダヤ教徒たちにとって、異なる神を拝む人々は「神の救いの外にある人々」でした。非常にそっけない言い方になりますが、それだけの存在です。ユダヤ人にとっては関心の外にある人々でした。しかしキリスト者は違います。ユダヤ教徒にとっては、神の教えを歪めて語る人々であって、神の敵だったのです。だからユダヤ教徒たちはキリスト者を容赦なく迫害したのでした。
しかもキリスト者たちは「十字架刑によって死んだ男が生き返った」と吹聴して回っています。常識的にも、また当時の科学的思考によって考えても絶対にあり得ないことを吹いて回って、人々を惑わしている怪しからん連中であると考えたのかもしれません。
確かに科学的に考えるならば、死者のよみがえりなどあり得ないことです。理性的に考えると、一度死なれた主が復活なさったのだということを信じる私たちの信仰は、世の人々にとっては理解できない愚かなことでしょう。しかし私を救ったのは、間違いなく復活の主イエスなのです。私はそれを、皆さんに、全ての人に伝えたいのです。この愚かな信仰を伝えたいのです。
科学は確かに私たちを助けてくれます。科学の進歩によって、過去には死に至る病とされていた多くの病気が治療できるようになりました。科学の進歩によって、それまでは私たちを苦しめていた重い労働を、過酷な労働を機械が代わりに担ってくれるようになりました。確かに私たちは科学によって助けられています。
しかし私は問いたいのです。科学があなたの魂の問題を解決するでしょうか。私たちの魂に触れて、そこにある傷を癒し私たちを救ったのは、主の御手だったでしょう。私たちに揺らぐことのない希望を与えるのは、主なる神でしょう。私たちが私たちの魂と向き合うとき、そこに居てくださるのは主であるはずです。私たちを生かすのは、主なる神であるはずです。私たちを生かす力は神に存するのです。宣教とは、誰が私たちの主権を持っているのか、私たちは誰に従うべきなのかを伝える作業と言い換えることができます。私たちは、死者の中から蘇った主イエスが私たちを救ってくださるという愚かな信仰を、宣教という愚かな手段によって伝えるのです。
その宣教を妨げるものに対して、聖霊なる神は御力を示されます。サウロを、つまりパウロを通して宣言なさいます。
「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」
理性の極みである科学は確かに私たちに多くの物事を、事柄を見せてくれました。しかし同時に科学の故に私たちの未来にはどうしても見ることができない事柄が現れてしまいました。解決することのできない矛盾があります。避けることのできない災いがあります。
しかし聖霊なる神は、それをもたらした人を責めたり、罰したりはしません。「いや、実際にバルイエスの目を見えなくしてしまったではないか」と言いたくなるでしょう。しかし、8節を見てください。「魔術師エリマは二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」とあります。総督を信仰から遠ざけた者として聖書が言及しているのは、バルイエスではなく、魔術師としての彼の立場なのです。エリマなのです。彼の魔術が総督を信仰から遠ざけたのであって、聖霊がパウロを通して睨み付け、宣告したのは、魔術であって、エリマであって、バルイエスの人そのものではないのです。
そして、もう一つ注目してください。聖霊はバルイエスの目から光を取り上げてしまいました。しかし、この先ずっと、死ぬまで取り上げられたわけではありません。時が来れば彼は再び日の光を見ることができるのです。
誰かを信仰から遠ざけようとして目から光を取り去られてしまった人物を、私たちはもう一人知っています。パウロです。主イエスはパウロの元にアナニヤを遣わされました。今バルイエスは、目から光を失い、手を引いてくれる人を探しています。誰が彼の手を引きますか。そして、バルイエスのもとに遣わされ、彼の目が再び見えるようになるために寄り添うのは誰ですか。
それができるのは私たちであるはずです。私たちにそれをさせるものこそ、私たちの理性であって、私たちに働きかける聖なる霊の力なのです。私たちこそ、世の常識や理性に対して、それらが光を失ってしまった時に、手を引いてくれる誰かを探している時に寄り添うことができるはずです。
宣教とは、私たちと違う道を歩く人々と戦うことではありません。彼らが苦しみの中にある時に、彼らが苦しみに気付いた時に、共に寄り添い、共に歩くことなのです。
私たちの主張は、宣教は、パウロがしたように総督を仰天させ、ただちに主に従わせたような大きな力を持っていないかもしれません。それでも私たちは、手を引く誰かを求める彼女の、彼の、不安に震える手を取って伝えるのです。あなたの隣には主なる神が居られるのだと。いつでも、どのような時にも、主イエスはあなたを愛しておられるのだと。