2022年7月31日
コリントの信徒への手紙Ⅱ 6:1-10
「貧しいようで豊かに」
今日はパウロがテモテに充てて書いた手紙から聴きましょう。キリスト者にとって、果たすべき務めとは何でしょうか。神様はご自分の背負わせた務めを果たそうとする者に何も持たせずにその務めに向かわせたりなさいません。必要な物は必ず用意してくださいます。私たちが神様に与えられている物とは何でしょうか。今日はパウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙から、主の御心を聞きましょう。
コリントの教会は分裂の危機に陥っていました。コリントの町は大変栄えた町で、そこには色々な出自の人々が集まっていました。ですから、コリントの教会にも色々な人々が集まりました。出自が違う、つまり経歴も生活の基盤も違う人々が集まるということは、さまざまな考え方の人々が教会に集まったということです。
多様性ということを大切にする現代の教会にとっては、色々な考え方の人々が集まったということはとても良いことのように思えますが、そのことが、当時のコリントの教会にとっては困った事態を引き起こしてしまいました。色々な考え方のキリスト者たちが教会の中で、めいめい自分の主張を展開し、分派活動を始めてしまったからです。そして中にはパウロを非難し、パウロの言葉を信ずべきではないと主張する人々が現れました。パウロはそれらの非難に対し反論し、御言葉に立ち返り、もう一度一致をするようにと、何通かの手紙を送りました。それがコリントの信徒への手紙です。
今日読まれた聖書の箇所は、「わたしたちはまた」という言葉によって始められました。「また」と書かれているのですから、この箇所の前に何かがあって、それを受けて「また」と記しているのです。そして1節の内容は、パウロの勧めです。「神からいただいた恵みを無駄にしないように」とパウロは勧めています。ではその恵みとは何か。それについて考える時、この勧めに先立ってパウロが勧めた事柄が、私たちの理解を助けます。少し遡って見てみましょう。5章の20節から21節です。
20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
パウロはここで、神様との和解と、私たちが神様によって義とされる、つまり神様の御心にかなう者とされることとを関連付けて論じています。
神様と私たち人間との間には深い断絶があります。私たちは罪を避けることができません。神様の求めておられることは至極単純です。神を愛し、人を愛すること。しかし人はそれを全うできません。愛を完成することが人間にはできないのです。そこで神様は御子をこの地上に遣わし、罪の無い御子を十字架につかせられ、御子の死によって私たちの罪に赦しを与えてくださったのです。そして、その赦しを信じることで私たちは義とされる。御心にかなうものとされる。これこそが、私たちに与えられた恵みです。
パウロはこの恵みを無駄にしてはならないと説きます。そしてここでイザヤを引用します。
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」
荒れ野を放浪する民族であったユダヤの人々はカナンに定住すると、神を捨てバアルを拝むようになります。士師の時代には、神によって立てられたリーダーが民を戒め、神へと立ち返らせたのですが、王国時代になると神からの乖離は決定的になっていきます。そこで神はバビロニアの王を僕として用い、ユダヤの国を滅ぼし、その主だった人々をバビロニアに連れ去られました。これがバビロン捕囚です。
しかしユダヤの人々はこのことをきっかけとして、自分たちの神は誰なのかということを強く思い知るようになります。捕囚の苦しみがかえってユダヤの民の信仰を固く立てたのです。立ち返ったユダヤの民を神はそのままにはしておかれませんでした。ペルシアの王キュロスを用いて、バビロニアに囚われていたユダヤの民を解放します。ユダヤの民は神への背きの罪によって捕囚の憂き目にあうことになりましたが、神に立ち返った結果、自らの力によらず、神の力によって救われ、故郷に戻ることができたのです。罪を赦されたのです。
自らの力によらず、神の一方的な憐みによって赦され、救われる。この構図は今、私たちの背きと、十字架の血による赦しという形で再現されました。この恵みを無駄にしてはならないとパウロは説くのです。この恵みを世の人々に伝えることこそがパウロの使命であると、パウロは説くのです。
そしてパウロは、これまでどのようにしてこの使命を果たさんと努力してきたのかを書き連ねます。その姿を見れば、自分が何者なのかがわかるはずだと、そう言うのです。
確かにその通りです。説教者に、仮に巧みな話術が備わっていて、論理的にも神学的にも、信仰的にも正しいことを語っていたとしても、その生き方が不実であれば、誰がその説教者の言うことを信じるでしょうか。こうやって私は自分のハードルを高くしていくのです。しかし、誰かに罪を犯させるようなことを、つまり誰かを神様から引き離すようなことをしたり言ったりするような人物の言うことに説得力があるでしょうか。
私たちは、生きている以上苦しみを全て避けることなど出来はしません。私たちの心をへし折る圧迫が、悲しみが、不安が、生きづらさが、体の痛みが、恥辱が、戸惑いが、暴力が私たちを苦しめます。パウロもこれらの苦しみを味わってきました。特にパウロは、自らの使命を全うするために多くの苦難と対決しなければなりませんでした。
しかし、パウロは負けませんでした。真心が、正しい理解が、人を許し受け入れる優しさが、困っている人を助けたいという願いが、そしてそれらを私たち人間に与え、私たち人間を用いる聖霊の力が、分け隔ての無い愛が、御言葉が、つまりパウロに働きかける神様の御力が、苦難の中にあっても、福音の使いとしての務めをパウロに全うさせたと、そう語るのです。
神様はパウロにだけ、そのような働きかけをなさるわけではありません。私たち全てに、同じように働きかけられるのです。そして、私たちの苦しみや悲しみをも、ご自身の栄光の証へと、神様が絶えず私たちと共にあり、私たちを愛して下さった、神様と私たちの日々の物語へと作り変えられるのです。
ある方との出会いを思い出します。
彼女は、私がこのように説教壇に立っている時に、礼拝堂に入って見えました。
しばらくして、彼女のご子息が面会に見えました。お母様に洗礼を施してもらいたいと願い出られました。正直なところ、その時私は不安になりました。洗礼は確かな信仰によって受けるべきです。しかし、ご本人が確かな信仰をお持ちなのか、その時は不明だったからです。
翌日になって、主任牧師と一緒にお見舞いに上がりました。その時には、眠っておいでのようで、話しかけてもあまり反応がありませんでした。ですので、もし信仰をお持ちだったとしても、それを確かめることができるのだろうかとさらに不安になりました。しかし、「イエス様を信じますか?」と問いかけると、大きな声で、小さな体からよくそんな大きな声が出るなと驚くような声で「はい」とお答えになったのです。
さっきまで話しかけても全然返事をしてくれなかった人が、その時にはハッキリと力強くお返事をなさったのです。あれほど確かな、そして力強い信仰告白を私は知りません。心配する必要も、戸惑う必要も全く無かったのです。その時を神様が備えてくださったのです。
牧師がその場で病床洗礼を授け「イエス様のお弟子さんになったんですよ」と伝えた時に彼女が見せてくれた笑顔は、飛び切りの笑顔でした。
二日後の日曜日の夕方、教会を代表して二人の姉妹と4人で、彼女のお部屋に伺いました。受洗のお祝いの聖書が贈られると大切に、しっかりと抱き締めておいででした。
今にして思うと、あの聖書は彼女が受け取った、生涯最後のプレゼントだったのかもしれません。だとすると、彼女の持ち物のうち、最後に増し加えられたのは、聖書、つまり主の御言葉だったのかもしれません。
もちろん、それまで御言葉と無縁だったわけではありません。学生時代にも、大人になってからも御言葉に触れる機会はありました。大人になってから、御言葉を求めて教会に通われたそうです。でも、最後に贈られた聖書は、彼女の人生を象徴しているのではないかと、私は感じるのです。
確かに、洗礼を受けたキリスト者としての時間は数日だったかもしれません。しかし、彼女の97年の生涯の最初から最後までを、主はともに歩まれたのです。ではなぜ、主は彼女の人生の最後に、洗礼の時を置かれたのでしょうか。それは、私に神様の御力をお示しになるためです。少なくとも、私にとってはそうです。彼女は、「はい」の一言で、神様の御力の大いなることを証されたのです。彼女は間違いなく、神様によって遣わされた方だったのです。神様は彼女の人生を通して栄光を表されたのです。彼女の聖書は、彼女の生涯が神の栄光を表すものであったことの証として、ご家族の手元に残るのです。
この力が、同じ力が私たちにも働きかけているのです。主なる神は私たちをも同じように用いられるのです。私たちはキリストの使者として、世に遣わされているのです。その時に私たちは何も持たずに遣わされるのでしょうか。パウロを悩ませたような苦難は私たちにも降りかかってくるでしょう。その苦難に、私たちは何も持たずに立ち向かわなければならないのでしょうか。決してそんなことはありません。私たちには御言葉があるのです。神様の愛の言葉があるのです。
この世の人は、なかなかそれを信じないでしょう。神の愛は目に見えないからです。御言葉は、なかなか心に届かないでしょう。しかし、間違いなくそれはあります。私たちはそれを受け取っているから、そう言い切ることができます。そして、神の愛の中に生きる私たちの姿は、私たちが思っている以上に、人に知られます。だから私たちは、私たちの生き方を世に見せるのです。
それは決して、苦難のなかにあっても平気な顔をして笑顔で生きよということではありません。むしろ、苦しい時にはおすがりすることができる方が居るのだということ、苦しみを告白することができる人が居るのだということを証すればいいのです。悲しみの時に、慰めて下さる方がおいでだということを証すればいいのです。
この世的に言うならば私たちは無力で、苦しみや悲しみに立ち向かうための武器を何も持っていないように見えるかもしれませんが、そんなことは無いのです。神の、愛と真理の言葉を、私たちは左右の手に持っているのです。神様の正しさ、神様の赦し、神様の恵みを持っているのです。だから、不安かもしれないけれど、私たちは恐れる必要が無いのです。
お棺の中で眠る彼女のお顔は、とても穏やかで満ち足りた表情でした。主が彼女と一緒に歩み、守り、迎え入れられたのです。
主は、私たちとも一緒に歩いてくださいます。私たちの目には、一緒に歩めていないように感じられる時であっても、主は私たちと共に歩まれ、私たちの人生を御心にかなうもとのしてくださいます。自分では貧しい日々を送っているように思えたとしても、それらの日々の全ては主に祝福された豊かな日々なのです。だから、私たちは、何ものをも恐れる必要は無いのです。
御言葉を持って、この世へと出て行きましょう。