聖霊降臨節第11主日礼拝説教

2022年8月14日

ヘブライ人への手紙Ⅰ 12:3-13

「主による鍛錬」

ヘブライ人への手紙はキリスト教会において正典と認められるまでに随分と時間のかかった書物です。東方教会、いわゆる正教会では2世紀には既に正典に数えられていましたが、西方教会では長く議論が続いていました。

おそらくパウロの著作ではないのですが、ルターはアポロが書いたのではないかと考え、カルヴァンはルカかクレメンスのどちらかが書いたのではないかと考えていました。この議論には今に至るまで結論が出ていませんが、おそらく西暦80年から90年頃に生きた人、つまり信仰の第2世代の時代を知っている人物であろうと考えられています。

信仰の第1世代はユダヤ人による迫害を経験しました。迫害による苦しみは信仰者をふるいに掛けますが、ある人々にはかえって信仰を強める働きをします。ヘブライ人への手紙は、迫害を経験した第1世代の背中を見ている第2世代に対して、来るべき迫害に耐えて信仰の道を全うするよう、励ましを与えるために記された書物です。

著者は迫害の苦しみを神による鍛錬であると捕らえています。この鍛錬をくぐり抜け、正しい道を歩むことこそキリスト者にふさわしい生活であると勧めています。

信仰には生活の規範という側面もあります。キリスト教に限らず多くの宗教が、人に正しく生きるための道筋として規範を示しています。また規範を守るためのモチベーションをも与えます。「これこれをすると神さまは喜ばれる、なになにをすると神さまは悲しまれる、お怒りになる」などと教えたり、考えたりして、より好ましいと考えられる生き方を選択する動機をしているわけです。特に日本のプロテスタント教会においては信仰を規範的な意味合いで捕らえる傾向が強いように感じます。これはおそらくピューリタンの影響でしょう。

プロテスタンティズムは江戸時代末期から明治にかけて日本に入って来ましたが、その母体の多くはアメリカの宣教団体でした。アメリカ合衆国という国は、いわゆる「ピルグリム・ファーザーズ」という神話の上に建てられた国です。

彼らは清潔、潔白、厳格、潔癖であることを旨とする信仰をアメリカに打ち立てました。その傾向を垣間見られる一番分かりやすい例は「若草物語」であろうと思います。

四人の若い女性が成長する様子を描いた作品ですが、その第一章から既に若干教条主義的な傾向を読み取れます。しかし、この作品がアメリカで広く受け入れられていたという事実が、アメリカの「読書をする層」が厳格さ、潔癖さを当然のこととしていた証拠となるでしょう。

読書をし、さらに一般より若干でも高い倫理観を持つ宣教師たちもこの傾向を持っていたわけですが、この人たちが信仰を日本に持ち込み、それが日本の教会の基礎を形作ったわけですので、当然のごとく日本のキリスト者たちも規範的・潔癖な傾向を持っています。

規範的であること自体は決して悪いことではありません。規範は人を罪から守る働きを持つからです。しかし、本来ならば人を導く規範意識も、用い方を間違えると人を苦しめるだけになってしまいます。

「キリスト者たるものこうでなくてはならない」とか「キリスト者なんだから、このような選択をするのが当然である」というような決め付けや押し付けは、人を苦しめ、挫折させ、かえって神さまから遠ざけてしまうのです。

人は誰でも一所懸命に走っています。走る様子は短距離走ではなく、長距離走、持久走に似ています。

鍛錬と聞きますと、どうしても自衛隊時代の訓練を思い出します。私は運動が苦手ですが、一度だけ運動で褒められた経験があります。それが持久走でした。

持久走は、優れた運動神経やセンスを持っていない者にも勝つチャンスがある競技です。もちろん高いレベルの競争においてはそれらを持っている者が頂点に立つわけですが、それほど高いレベルの戦いでなければ、どちらかと言うと能力よりも意志が記録や勝敗に大きな影響を与えるように思います。

走っていれば、当然しんどいわけです。脈拍が上がり息苦しくなる。体が熱を持ち、それもまた苦しい。その苦しさに打ち勝つ意志の強さを持てるかどうかが勝敗を決めます。持久走は精神の戦いなのです。

私は意志の弱い人間ですので、自分の力だけではペースを保てません。すぐにペースを落としてしまうのです。それでも勝ちたいと思った私は前を行く者の背中を目標にしました。

同じメンバーで何度か走っていれば、自分の周りに誰が居るのかが何となく分かってきます。自分よりも少し早い人を目標にして走るろうと決めたのです。出来るだけ離されないように。距離を保てるように。あわよくば少しでも近付けるように。前を行く人の背中が私にとっては励ましとなったのです。

この走り方を何度か続けていると、前をいつも走っている人から「後ろから聞こえる足音と息の音が怖いからやめて欲しい。」と苦情を受けました。もちろん競技における作戦ですので、やめる義理もありませんし、そんなことは彼も期待していないのですが、追われる者の不安と申しますか恐怖は意外と大きいのだと、その時知りました。これと同じようなことが信仰生活においても言えるのです。

正直に申しまして、私は若草物語を途中で挫折しました。「天路歴程ごっこ」をして喜ぶという描写によって、初手から「うっ」となってしまったので、その印象を持ったまま読み続けられなかったのです。尻を叩かれるような、迫られるような気がして読み続けられなかったのです。

私は明治時代に日本に入って来たアメリカの宣教師をあまり高く評価していません。彼らには独善的な傾向があったように思えるからです。言っていることは正しいのですが、そこに自分との隔たりを感じて、ついて行けないのです。何か尻を叩かれているような気分になってしまうのです。

私の信仰は実に貧しいものではありますが、この小さな信仰を育ててくれたのは、私に優しくしてくれた人たちが見せてくれた、ちょっとした仕草や一言でした。

彼らは意図してそうしたわけではありません。しかし、彼らの姿は私が悩む時、苦しむ時、瞼の裏に蘇ります。

持久走大会の日、私はゴールの50メートルほど手前で失速してしまいました。ペース配分をしくじって、ギリギリでエネルギーを使い果たし、脚がひどく重くなってしまったのです。それでも何とか脚を動かして倒れ込むようにしてゴールしました。その時、私の脚を動かしたのは、周囲の人の応援でした。

応援を聞く時の気分は不思議なものです。「ありがたい」と思う反面、「もう走らせないでくれ。もう止まって良いと言ってくれ。」とも思うのです。応援の声は私を走らせました。それは強制ではありません。応援の声は尻を叩く力ではなく、後ろから迫る力でもなく、前へと引っ張る力でした。

ゴールした私を倒れないように支えてくれた人は、「よく頑張った」と声を掛けてくれました。

私たちの人生にも励ましてくださる方が居られます。そしてゴールした時には「よく頑張った」と褒めて下さる方が居られます。

苦難の時、私たちは倒れそうになってしまいます。神さまを恨みたくなります。なぜこんな苦しみを与えられるのかと文句を言います。神さまが苦しみを私たちの前に置かれるのではないのです。それは人が生きている限り、どうしても避けられない苦しみなのです。まして苦しみは罰ではありません。苦しみの時、神さまは私たちの側に居られて、励ましてくださるのです。

苦しみを通して初めて存在に気付けるものもあって、それは私たちに必要なものなのです。苦しみの時にこそ神さまを信じ、御声に耳を傾けましょう。

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