2022年8月21日
エフェソの信徒への手紙 5:21-6:4
「それゆえ一体となる」
パウロは、キリストと教会の関係を夫婦の関係になぞらえて論じています。パウロの当時にあって広く持たれていた家族観が如何なるものであったのかを理解するには、資料からの推測以外に方法がありません。おそらく、女性の立場は低かっただろうとは言えるのですが、その程度がどれほどであったのかは分かりません。資料によって揺れがあるからです。
例えば申命記24章の記述によれば、「夫は妻に恥ずべきことを見出し、気に入らなくなった時は離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と記されていますが、何が「恥ずべきこと」に当たるのかは解釈者によって随分と違います。
厳格な解釈をする指導者は「姦淫以外の理由を認めない」という立場を取りましたし、リベラルな立場を取る指導者は例えば「食物に塩を入れすぎて食事をだめにする。頭に被りものをしないでおおっぴらに歩き回る。通りで男の人と話す。夫の聞いているところで夫の両親を悪し様に言う。喧嘩好きである。うるさくて口論好きである。」などの理由を離婚事由として認めています。
これらの理由を「こんなことで…」と言われる方も居られると思いますが、これも程度によると思います。例えば食事などは当時にあっては「分担された労働を充分に果たせない」と言い換えることもできますし、特に口に入れる物の良し悪しは日々の健康に直結しますから、案外馬鹿にできません。外出にあたって被り物をしないというのも、今の感覚で言うならば妻がパンツ一丁で外を歩き回るような感覚でしょう。私もきっとそれを止めるでしょうし、それでもやめなければ私は悩むと思います。
通りで夫以外の人と話すのも、当時の感覚からすれば姦淫すれすれとことを平気でしてしまう女性であると見做されるでしょう。自分の聞いているところで自分の両親を悪く言われたり、喧嘩や口論をやたらと吹っ掛けたりするようでは平和な家庭など築きようがありません。せめて自分の聞いていないところで言ってもらいたいものです。
更に理解しておかなければならないのは、当時は結婚にあたって妻の側から持参金が夫に支払われていたという事実です。
この持参金の扱いですが、中東から中央アジアにおいては妻の実家が妻に持たせる妻が自由に使える財産であるという解釈がされています。もちろん実際には家計の足しにする場合も多くあっただろうと思いますが、離婚する際には夫はこれを返還しなければならないと定められていました。
実は江戸時代にも同じように、離縁する際には嫁入り道具や持参金を返還しなければならないという決まりがあったそうです。この規則は事実上、離婚を難しくしていました。庶民の場合は嫁入り道具も換金して日々の生活費に充てるケースが多かったからです。
離縁状が持つ意味も、随分と捻じ曲げられて伝わっていると考えます。日本では「三行半」などと言いますが、あたかも簡単な書付一本で女性は家を追い出された証拠であるとする人も居ますが、その解釈は大きな間違いで、三行半の実態は「これを持つ女性が他の男性と再婚したとしても文句は言わない」という、再婚の許可状でした。
結婚をした直後に夫にこれを書かせておく女性も居たそうです。こうなると夫としては妻の機嫌を損ねるわけにはいかなくなるので、心配でたまりませんよね。
ユダヤの律法においても同じように「離縁状を渡せ」という決まりがありますが、その性質は分かりません。もしこれも江戸時代のケースと似ていたという可能性も否定できません。
歴史上の過去の生活について記録している資料は確かに存在するのですが、だからと言って資料を読みさえすれば、その実態を完全に理解できるかと言えば、決してそうではありません。今の感覚からすれば女性の地位が低かったとされる状況ではあったのですが、その背景に何があったのか、またその程度が如何ばかりだったのかは誰にも分からないのです。
従って、今日読まれた箇所においてパウロが何を伝えたいのかも、ハッキリとしない「古代における女性の立場」に足場を置いて解釈しようとすると、場合によってはとんでもない的外れをやらかしてしまう可能性があります。
ただ、パウロが「家族は互いに大切にし合うべきだ」と考えているとだけはハッキリと言えます。
教会で結婚をしようとしている二人の人には、結婚前の準備会を用意し、牧師がアドバイスをします。その時、聖書が結婚についてどのように教えているかを考える材料として、最初の男女、アダムとエバが創造された際の様子を物語ります。
創世記第2章において神さまは女を創造するにあたって、男のあばらを抜き取り、それを材料とされました。あばらは人の心臓に最も近いところにある組織であり、心臓を包み、守っています。結婚する相手は、我が心のすぐ傍にある者であり、心を包み、守ってくれる者なのです。互いにとって同じことが言えるのです。そして、元々が一つの体から創られた者だから、一つの体を創ろうとして、互いに近付き合うのです。
パウロは夫婦の関係を論じるにあたって、教会を引き合いに出しました。教会はキリストの体であり、教会の頭はキリストです。人間は頭だけで生きていけるでしょうか。逆に、頭を失って体だけで人間は生きられるでしょうか。頭も体もそろって初めて人間は生きられるはずです。
夫婦は互いに対等であり、互いに大切にし合うべきです。それでも特にパウロは夫に、つまり男性に重い責任を負わせます。
キリストが教会を清めて聖なるものとされたように、夫は妻を愛さなければならない。これも、一般的には男性の方が女性よりも体力的に強いという事実を考慮に入れた上で解釈をすべきだろうと考えます。
強い者は配慮を欠くと相手に恐怖を感じさせてしまいます。また、無自覚のうちに何かを強制してしまうこともあり得ます。しかし、強いられて存在できるものではありませんし、強いられて力を発揮できるようなものではありません。愛はそれ自体、自ずから存在し、力を発揮するのです。互いを大切にしあい、安心できて初めて人は愛の存在を感じられ、愛の力を引き出せるのです。だから、力を持つ者は、それを持たない者に配慮をすべきなのです。
ここでは夫と父、つまり男性に求められていますが、決して男性の側にのみ求められるわけではありません。力とは物理的な体力だけを指すわけではないからです。妻の方が強いという家庭も少なくないと思います。強い立場にある者には周囲に対する責任があると言いたいのです。愛は支配や服従の関係の中には存在出来ないのです。
相手のことを煩わしく思う時もあると思います。「メンドクサイなあ」とか「難しいなあ」と思うでしょう。夫婦の間でも思うでしょうし、親子の関係でもあるだろうと思います。どんな人間関係においても思うでしょう。しかし、その煩わしさこそが宝物なのです。その煩わしさをこそ大切にしませんか。独りぼっちでは煩わしく思うことすら出来ないのですから。人間は独りぼっちでは自分を温められないのですから。誰かが傍にいて、互いに温め合って、初めて人は寒さから逃れられるのです。
私たちは愛という共通の土台を持っています。その土台の上に、私たちはキリストの体を建てます。それは第一義的には教会ですが、私たちの家庭もまた、神さまによって集められた人の群れであり、神さまの御手によって建てられた家です。神さまが注いでくださる聖霊で、イエスさまが注いでくださる聖霊で満たされた家を立てましょう。