2022年8月28日
ペトロの手紙Ⅰ 5:1-11
「神が心にかけてくださる」
私たちの日々の生活において、「思い煩い」は、決して少なくない頻度で起こってきます。特に、このところの私たちをとりまく状況は深刻で、不安や心配ごと、悩みは尽きることはありません。では、なぜ私たちは思い煩うのでしょうか。さまざま理由はあるかと思いますが、キリスト者としての一番の問題はへりくだる心がないからでしょう。傲慢や高ぶりの心は今に満足することが出来ません。満足出来ないから神さまに感謝することもありません。なぜ自分はこんな目に遭うのかと文句を言い、不満ばかりが募ってきます。その結果、神さまを疑い、何もしてくれない神さまに苛立ち、将来の不安ばかりに襲われてしまうのです。「思い煩い」と訳された言葉には、「別々の方向に引っ張ること」という意味合いが含まれています。それは、神さまと反対の方向に向かわす力と言うことも出来るかもしれません。傲慢な心は、自分の正しさを主張し、神さまに怒り、神さまを裁いてしまうのです。
けれども、神さまは、私たちにそのような怒りや不満をこらえて自分を低くし、ただ従いなさいとは言われません。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と言われるのです。この「お任せしなさい」と訳されている言葉は、「投げつける」と訳すことも出来ます。つまり、私たちの中にある怒りも、不満も、悩みも心配も、あるものすべてを「神さまに投げつけなさい」と言われるのです。
神の前にへりくだるというのは、無理やり自分を押し込めることではありません。信仰は、我慢することではないのです。もし、そうであったら、そこに喜びなんて見出すことは出来ないでしょう。そして、もしそうだとしたら、神を愛し、神に従い、人に仕えるなんてことは出来っこありません。私たちは、ともすると、お行儀の良いのが信仰だと思ってしまわないでしょうか。でも、神さまに遠慮はいりません。「あなたが心にあるものすべてを、ここに投げつけたらよい。」そう神さまは言われるのです。
イエスさまは喜んで、全力で私たちを受け止めてくださます。私たちの神さまは、私たちの訴えに耳を貸さないお方ではありません。聞き続けてくださるお方です。心にかけていてくださるお方です。
なぜそこまで言えるのでしょうか。それは、十字架上のイエスさまがそうだったからです。イエスさまは、私たち人間の罪をその身に負い十字架に架かられました。そして、十字架の上で、人々の敵意、あざけり、罵倒、ありとあらゆるものを受け止められました。さらに、そんな私たちのために祈ってくださる。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」その祈りによって、私たちは滅ぼされずにすんでいるのです。そうして、イエス・キリストは私たちのために命を捨ててくださったのです。私たちをもう一度、平安の中に導くためにです。
私たちは、この神さまの愛を知ればこそ、「謙遜な者」へと変えられるのです。互いに「謙遜を身に着け」る関係を築くことが出来るようになるのです。最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちの足を洗われました。主イエス・キリストが謙遜を身に着けて私たちに仕えてくださった。私たちをこの上なく愛してくださった。この主の愛を知るからこそ、私たちはその愛に応え、キリストに倣うものとなるのです。謙遜になればこそ、なお神さまが「心にかけていてくださる」ことを知ることが出来るのです。
しかし、私たちが傲慢な態度を取っている限り、その真実は見えてきません。力強い御手のもとに低くなった時にこそ、今に至るまでずっと心にかけていてくださったお方の真実を知るのです。その時、私たちは、苦難の中で神さまの愛を疑って背を向けるのではなく、その苦難の中でこそ神さまの変わらない愛を知り、「神さまは、確かに心にかけていてくださるのだ」ということを目の当たりにすることが出来るのです。苦難の中でも平安が与えられ、苦難の中でも喜びに生きる人となれるのです。