2022年8月7日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:14-26
「キリストの体」
パウロは教会を一つの体に例えて論じています。私たち日本基督教団は独自の信仰告白を持っていますが、そこでもやはり「教会は主キリストの体である」と告白しています。イエスさまは御復活の後、40日間を弟子たちと共に過ごされ、地上においてなされた数々の御業の意味を直接に教えられました。その後、天に昇られ、今でも天に居られます。そこから地上をご覧になっているわけですが、この地上において御意思を行おうとされるにあたっては、教会を通して行われます。
主の選びによって召し出された人は教会に集い、そこで福音を宣べ伝えられ、聖霊を注がれ、恵みと赦しへの応答として自らの行いを捧げます。そしてコロサイの信徒への手紙に書かれている通り、キリストの体である教会は頭としてキリストを頂いています。
教会に集う一人ひとりには、それぞれ違う賜物が与えられています。今日、読まれた箇所の少し前に記されているパウロの言葉を借りますならば、ある人には知恵、ある人には知識、ある人には信仰、ある人には癒しを行う力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
これらの人々、つまり私たちはイエスさまがなさりたいと考えておられる何事かを実現するために召し出されていますが、私たちがそれぞれにバラバラであったならば本来の役割を果たせません。それぞれに違う働きが与えられていたとしても、統一された意志の許でそれらが行われて初めて私たちはイエスさまの御心を行えるのです。
「統一された意志」と申しますと全体主義的な臭いがして、ちょっと嫌な気持ちになるかもしれませんが、決して難しいことではありません。私たちは互いに互いを必要としていると知る、それが第一の基礎となります。
私は趣味で楽器をいじります。へたくそですがチェロを弾いています。弦楽器は面白い楽器でして、右手と左手はそれぞれに違う役割を持っています。
右手は弓を操作し、音を出します。弓の動かし方や弓に欠ける圧力によって柔らかな音や固い音、優しい音や強い音を出したり、音の大小を決めたり、音の立ち上がり方を必要に応じて変えたりなど、表現と言いますか音楽の表情を作り出す役割を担っています。
左手は弦を押さえて音の高さを決めます。また、押さえる指を揺らしたり音の移り変わり方を変えることで右手とは違った形で表情を出します。
右手と左手のそれぞれに違う働きをさせるというのは案外難しいもので、片方の手だけを動かしていた時にはできたことが、両方一遍に動かしてみると出来ないということが良くあります。
特に、最近の私の悩みは弓の返しです。弓は往復運動をしていますが、この切り返しが上手でないと音がぶつ切りになってしまって、滑らかにフレーズを繋げられません。色々に工夫をしてみましたが、中々上手にできずにいます。最近思い付いて、ブレスをするようにししてみました。
弦楽器を弾くのに息は関係ないのではないかと思われるかもしれませんが、リコーダーを吹く時と同じように音を出す前に息を吸い、フレーズに合わせてタンギングをしながらチェロを弾くと、右手と左手が上手に連動するように思いますし、それぞれ手もタイミング良く動き、滑らかに音が繋がるように感じます。つまり、息を司令塔にして両手が動いているわけです。教会の働きもこれと同じなのではないかと思います。
右手と左手は他人ではありません。それぞれの役割は違いますが、関係しあっています。右手が左手に対して、あるいは左手が右手に対して無関心であったならば、望んだ音を出せませんし、それではひとつの音楽を美しく奏でられないのです。右手と左手を直接に結びつけるのが難しければ、間に何かを据えて橋渡しをしてもらえば良いのです。
では何に橋渡ししてもらいましょう。実はそれこそ何よりも先に据えられていました。それはキリストによって注がれる聖霊であり、聖霊の注がれる場である礼拝です。ここで使徒信条に目を向けてみましょう。使徒信条は大きく三つのセクションに別れていますが、その三つ目は聖霊に関する告白です。
「私は聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の蘇りを信じます。」と告白するわけですが、この文章の前半こそが教会に関する告白です。「聖なる公同の教会と、そこで実現される聖徒の交わりを聖霊の働きによると信じ、大切にします。」と告白しているわけですが、聖なる公同の教会とは何でしょうか。「公同」とは「普遍の」という意味です。「普遍」とは、変わりがないという意味です。つまりどこに行っても同じように信仰が、礼拝が守られている教会こそ、私たちの教会であるという意味です。
日本基督教団信仰告白を見ますと、もう少し掘り下げた表現がされています。「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」
つまり「どの教会でも同じように聖書が正しく読まれ、どの教会でも同じように洗礼と聖餐の聖礼典が行われている」ことが、どの教会においてもその営みの中核・基礎となるのだと、日本基督教団は信じているのです。
教会に集う一人ひとりが大切であると、私たちはこれまでに何度も、いろいろな場所で聞かされてきたと思います。多くの説教が教会に集う一人ひとりに目を向けるのと同様に、一つひとつの教会にも同じことが言えるのです。それぞれの教会が大切。そしてそれぞれの教会に違いはあれども、根っこの部分は変えず、同じ信仰を守ることが大切なのです。
信仰の根っこ、基礎の部分が同じであると担保するのは、信仰告白による一致と、礼拝において福音が同じように正しく宣べ伝えられ、聖礼典が同じように執行されているという理解です。それが無くなってしまっては、同じ教会とは言えなくなってしまうのです。
様々な想いがあって良いと思います。神さまに聞いていただきたい想いがそれぞれにあります。しかし、想いだけを先行させるのは危険です。基礎から足を踏み外してしまっては正統性を保てなくなってしまうからです。
後に14章でパウロは異言と預言の二つの賜物を特に取り上げて論じていますが、ここでは「異言は人には語られておらず、神に向かって語られる言葉である。その意味は誰にも分からない」と述べています。神さまへの強い思いが恣意的に解釈され、悪用される危険があるのです。
それに対して「預言は人に向かって語られているので、人を作り上げ、励まし、慰める」と述べ、異言より預言の方をより強く求めるよう勧めています。預言とは立ち帰りの勧めです。私たちは何に立ち帰りましょう。
新たな一歩への挑戦は尊いと思います。しかし、それが全体の調和を乱すならば、それは間違いです。右手と左手がバラバラのことをしていたのでは音楽は成り立たないのです。
今日は聖餐式が執り行われます。聖餐のパンには一致の印という意味もあります。
ただでさえ世界が分裂し争っている今だからこそ、そしてかつて世界が分裂して戦い、殺し合っていたという歴史に思いを馳せる季節である今だからこそ、一致の大切さを共に味わいましょう。