2022年9月11日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:27-13:13
「最も大いなるもの」
今日読まれました御言葉は「愛の賛歌」と呼ばれ、聖書の中でも取り分け重んじられてきた箇所です。この御言葉がコリントに住むキリスト者たちに宛てて語り掛けられたということに、現代に通じる大きな意味があるように思います。コリントは、その由来こそ古い町ですが、その雰囲気は新しい町の持つそれでした。紀元前146年、ローマとの戦争に破れて破壊され、廃墟となったコリントの町でしたが、交通の要衝であったことから、紀元前44年に再建され、新しい住人が入って来ました。これらの人々の中には兵役を終えた退役軍人が居り、自分の身分を買い戻した解放奴隷が居り、生まれ変わった町で一旗揚げようと、夢を持って集まっていました。
元ローマの兵士や解放奴隷はローマの文化、ローマ的雰囲気の中で育った人々です。法の支配と実利を重んじる人々でした。ですから、教会に集う人々も、教会のために役立てて初めて居場所が与えられるというような雰囲気があったのでしょう。そして、教会に対する貢献の度合いを競うような雰囲気があったのではないかと想像します。
教会の役に立ちたい、その思いが逆に教会の持つ霊的な働きや交わりへの理解を妨げても居ました。そんな彼らに対して、教会が、キリストを信じる者が最も大切にすべきものとは何であるかを明確に示したのが、今日のこの箇所です。
パウロは語ります。
どれほどの大きな働きをなしたところで、そこに愛が無ければ何の意味も無いのだ。神さまの御言葉を直接に取り次ぐ力を持ったとしても、神さまの御心を完全に理解しようとも、決して揺るがぬ強い信仰を持とうとも、愛が無ければ意味がない。どれほど尊い働きをしようとも、どれほど献身的な奉仕をしようとも、命をも差し出したところで愛が無ければ何の意味も無い。
神さまの御心のためになされる働きに優劣は無いのです。そこに愛があれば、差し出すものが私たちの目にとても小さくても、それは偉大な業となるのです。神さまが大きくしてくださるのです。逆に、愛が無ければ私たちがどれほど大きなもの、自分では大きいと信じるものを差し出そうとも、それは小さくなってしまうのです。
ではこの小さな私たちをも大きく用いられるものとする愛とはどのようなものでしょうか。4節から愛の性質が列記されています。愛は忍耐強い、愛は情け深い、妬まないなど。
これらの特性は、愛の条件ではありません。こうでなければ愛ではないという意味ではありません。愛は、相手に対してこのようでありたいと私たちに願わせる力を持っているのです。愛する者に対して寛大でありたい、誠実でありたい、その人を信じ続けたい、そのように願い、また実際にそのようにさせる力を愛は持っているのです。愛とは、その人を良しとする心であり、その愛が私たちをも良しとするのです。
愛は私たちに大きな視点を与えます。私たちはどうしても部分的な事柄に目を向けてしまいます。小さな私たちにとっては、目の前、そばにあることが一番大きく映ってしまうからです。しかし、大きくなって様々な角度から物事を見られるようになると、目の前にある物事の背後にある何かにも目を注げるようになります。
人の背後には悲しみと言いますか、業の深さのようなものあります。誰もが縛られている中で必死にもがいているのです。それに気付くと、たまらない気持ちになります。息を付ける場所をどこかに見付けて欲しいと願うようになり、同時に自分自身も息を付ける場所を必要としていることに気付きます。
ありのままを受け容れあえる場所が必要なのです。誰をも作り変えようとはしない。自分も作り変えられない。そんな場所が必要なのです。でも不思議なことに、誰をも作り変えようとしないそこに居ると、人は自然と作り変えられるのです。愛に飢え、渇く者から、愛する者へと作り変えられるのです。優しくされるから、自然と優しくなれる。意識しなくても、優しくできるようになるのです。
今、あなたの目の前にいる人は、その人なりに一所懸命に頑張っているのです。もがいているのです。
子どもと保護者の関係を見ていると、強く思わされることがあります。子どもの中には、どうしても他の子と同じようにはできない子が居ます。そんな子を受け容れられずに一番苦しむのは、実はその親、特に母親です。
母親は苦しみます。苦しむから怒ります。「どうして出来ないの。どうして分からないの。」と声を荒げることもあります。多くの親が我が子には良い子で居て欲しいという希望を持っていることでしょう。その希望が失われたから怒るのです。
そんな様子を見て、他の大人は言います。「諦めた方が楽だよ」。
とても冷たい言葉のように聞こえるかもしれませんが、そのように言う人は、別に冷たいわけではないのです。少し誤解を受けやすいと言いますか、ちょっと的から外れて解釈されかねない危うさを持った表現をしていますが、その言葉は「その子をそのままで良しとしてあげて。その子も今、頑張っているんだから、その頑張りに気付いてあげてよ。我が子を信じてあげて。」というニュアンスで発せられているのです。
人間の肉の思いから出る希望は本当の希望じゃないと思います。それは単なる欲望です。自分の都合の良いように振舞ってもらいたいという欲望でしかありません。欲を超えたところに本当の希望が見えて来るのです。子どものことで言うならば、その子が安心していられる場所を見付けられ、安心して一緒に歩ける友を見付け、その子が愛し合える人と出会えたら、何にも優る幸せではないですか。
今日の御言葉は「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と締めくくられています。
“πίστις”という単語を「信仰」と翻訳するから意味が極限されてしまうのです。「信仰」という言葉は神さまと人との関係において使われるので、どうしても私たちの理解を限定してしまうのです。
“πίστις”とは、広く「信じる」という意味の言葉です。信頼や誠実、約束、確信など、「信じる」という意味を広く持つ言葉です。
あなたがその人を信じたならば、その人との関係に希望が生まれ、互いに愛し合えるようになります。「その人」を誰かに限定する必要はありません。もちろん第一には神さまとあなたとの間にも、イエスさまとあなたとの間においてこの言葉は適用されるべきですが、あなたが誰かの誠実、その人の一所懸命を理解し、信じたならば、そこには諦めでも押し付けでもない、本当の意味での希望が生まれるのです。希望を共有できれば、そこに愛が生まれるのです。
そして、あなたも同じように信じられています。神さまがあなたを信じ、イエスさまがあなたを信じ、わたしたちもあなたを信じています。神さまのために、イエスさまのために、教会のために何かの役に立ちたいと思うのも良いでしょう。他の人と同じように役割を担いたいと思うのも良いと思います。でも、それが出来ない、思ったように出来ないからと言って引け目を感じたりはしないでください。あなたの一所懸命を神さまは、イエスさまは御存知ですし、私たちもあなたの誠意を信じていますから。
現代に生きる私たちは、社会への貢献にアイデンティティを見出す傾向が強いと思います。でも、人間は社会のために生きているわけではありません。働くために生まれてきたのではありません。神さまに命を与えられ、生かされている私たちは、愛するために、そして愛されるために生きているのです。愛されて生き、愛を伝えることこそが、私たちの使命なのです。