2022年9月18日
ガラテヤの信徒への手紙 1:1-10
「一つの福音」
パウロは異邦人の使徒として任じられ、地中海地方を旅し、キリストの教えを宣べ伝えましたが、同時に私たちの信仰の基礎をも築きました。私たちの目には超人的な働きをなしたように映りますが、彼自身はそれらの働きを自分の力でなしたとは全く考えていません。それどころか、人間の働きに目を向けがちな私たちに対して警告を発しています。今日はパウロがガラテヤに住むキリスト者たちに宛てて書いた手紙から聴きましょう。ガラテヤは、例えばローマとかコリントと言ったような都市の名前ではありません。ガラテヤは現在のトルコ共和国中央部にあった地方の名称です。この手紙の宛名は、今の私たちの感覚としては「関東の人々に」ですとか「四国の人々に」というような大きなくくりで書かれています。
紀元前3世紀、ヨーロッパから侵入したガリア人によって王国が立てられたのが切掛けで、この地方をガラテヤと呼ぶようになりましたが、紀元前25年にガラテヤの王が死ぬと、国自体がローマに遺贈され、属州となります。ガラテヤの人々はローマに対して従順で、ガリアとローマの文化が融合した、独特の文化が栄えました。
使徒言行録第14章によりますと、バルナバとパウロがこの地方にあるリストラの町を訪れた際に脚の不自由な男を癒すと、それを見た人々はバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼び、二人に生贄をささげようとし始めたので、パウロはこれを止めたとあります。個人崇拝と言いますか、ヒーローを好む性質が、この地方の人々にはあったのかもしれません。
この、ヒーローを好む性質、つまり個人の資質や資格、その人があげた偉業によってその人を崇め奉る性質、実際にはその人自身ではなく、自分たちの心の中で作り出した「理想の人物像」を崇める性質が、パウロの目には問題として映ったのです。
ガラテヤの人々はヒーローを好みました。理想のヒーローのイメージを誰かに投影し、その通りに振舞う人を崇め奉った一方で、そのイメージにそぐわない人物に対しては敵対し、排除する傾向が、ガラテヤの人々にはあったのです。
ガラテヤの人々の元に、パウロには使徒の資格が無いので、パウロの言うことなど聞く必要は無いと主張する人々が来ていました。彼らの言う使徒の資格とは何でしょうか。使徒言行録を見ますと、そこには使徒選びの基準が記されています。
使徒たちは、ユダが失われたために欠員となった使徒職を誰かによって埋めようと人選を始めますが、その際に生前のイエスさまと一緒に旅をし、復活のイエスさまと出会った者こそ使徒にふさわしいと考えました。これを条件として考えるならば、パウロは使徒の職にふさわしくありません。パウロは地上を旅しておられたイエスさまには従っていませんでしたし、復活されたイエスさまにも会っていません。それどころか、イエスさまを信じる人たちを迫害して回っていました。確かにパウロには使徒職に就く資格が無いように思えます。
この非難に対してパウロは宣言します。使徒は人間によって選ばれるのではなく、イエスさまと神さまによって選ばれるのだと。
パウロはイエスさまと出会っていなかったでしょうか。反対者たちはそう主張していますが、ダマスコへの途上でパウロは確かにイエスさまと出会っています。イエスさまと出会ったパウロは光を失い、闇の中に居ましたが、イエスさまによって遣わされたアナニアが手を置くと光を取り戻しました。
パウロは人間的な思いからキリスト者たちを迫害し、キリストを苦しめていましたが、キリストの御心によって救われ、作り変えられました。パウロは罪の中で生きていました。その罪が如何なるものであるかを知ると闇がパウロを閉じこめましたが、イエスさまが彼を闇の中から引き出し、イエスさまに仕える者として作り変えられました。パウロはイエスさまによって選びだされ、その働きとそれを果たすための力が神さまから直接に与えられていたのです。
神さまは完成した人物を御心に適う者として召し出されるのではありません。もしそうであったならば、この世に召しに相応しい者など一人として居ないでしょう。それでは、地上に神さまの御心が人を介して行われなくなってしまっていたはずです。神さまは完成した人を働き手として召し出されるのではなく、その人を完成させるために働き手として召し出されるのです。その人は与えられた働きによって、良い者、御心に適う者へと作り変えられていくのです。神さまは御業に関与させることによって人を完成へと導かれるのです。
教会は、それ自体が完成しているわけではありません。教会は完成に向けて歩みつづけるものです。そこに集う人々もまた完成している人が集まっているわけではありません。完成を目指して共に歩む人々の群れが教会なのです。
パウロを否定する人々はパウロの宣教した福音をも攻撃しはじめました。彼らは救いの約束と賜物の全てはユダヤ人だけに与えられたのであって、異邦人には与えられていないと主張していました。もしこの考え方が主流となっていたら、キリストの教えはユダヤ人の一部だけのものとなっていたかもしれません。
彼らは、もし異邦人がキリスト者となりたがっているのならば、まずその人を律法に従う者、ユダヤ人に似つかわしい者とすべきだと主張しました。割礼を受けさせ、律法に従わせ、ユダヤ人として完成してから洗礼を授けるべきであると。
神さまとの出会いは人間が自分の行いによって勝ち得られるでしょうか。パウロに反対する人たちにとってはそうだったのです。律法の行いを一つ実行するごとに神さまに近付けると考えていました。それを彼らは福音であると考えていました。パウロの語る福音は、まるで逆でした。人間が自分の行いによって救いに至ることは出来ない。救いは神さまの自由な御意志によって、一方的に与えられると考えていました。
確かにその通りです。もし人間が自分の行いによって神さまからの救いを得られるとするならば、人間が自分の行いによって神さまの御心を操作できるということになってしまいます。それでは人間は神さまに従う者ではなく、神さまを従わせる者になってしまいます。
異邦人に対して「律法の定めを行わなくても良い」と述べるパウロを反対者たちは「異邦人に気に入られるために信仰を安易なものとしている」と批判していましたが、むしろ自分の行いによって神さまを従わせようとしている反対者たちの教えの方が、かえって信仰を安易なものとしてしまいます。何故ならば、パウロの教えによるならば、人は常に神さまへの恐れを忘れられないからです。これは神さまへの恐怖ではありません。一方的に与えられる愛への感謝の思いと同時に、それが一方的に与えられるが故に神さまに謙る気持ちを忘れられなくなるという意味です。
反対者たちの教えの方が、ずっと安易です。彼らの考えによるならば、律法を行ってさえいれば神さまの愛を得られる、救われる、神さまを自由に操れるからです。しかし、人間には限界があります。何かの拍子に人は罪に落ちてしまうことがあります。罪に落ちた瞬間に、その人の救いの道は閉ざされてしまうではありませんか。
パウロは異なる福音を告げ知らせる者たちを強く非難しています。異なる福音を宣べ、人を誘惑する者、人から謙虚さを奪い、神を操ろうとする者を強く非難しています。
世の中のには色んな教会がありますが、いくつかの教会を見ていると、不安に思うことがあります。あたかも「これこそが正義だ」と言わんとするかのごとく、世に対して主張をする教会があるからです。「キリスト者は当然こうすべきだ」と言うような決め付けをしているからです。では、その主張や極め付けと違う考え方を持つ人はキリスト者ではないのでしょうか。「これこそが神さまの御心だ」「これは神さまの御心に適わない」と主張しますが、その教会は神さまなのでしょうか。
神さまに成り代われる者など居ようはずがありません。
パウロは呪いの言葉すら発して異なる福音を告げる者を非難しています。彼の矛先は自分に反対をする人たちをではなく、これらの人々を福音への魅き入れる者、人の目には見えない力に向けられているのではないかと思います。パウロは人の心に住んでいる傲慢さを攻撃しているのではないでしょうか。
謙る気持ちを失った瞬間に、教会は、キリスト者は崖から落ちてしまいます。実に簡単に教会は落ちてしまいます。行いを絶対視したり、誰かに理想像を投影したり、ヒーローを喜んだりすると、教会は簡単に落ちてしまいます。私たちが作り上げる理想像やヒーロー像は偶像に過ぎません。誰かを偶像にしないために、自分を偶像にしないために、謙る気持ちを大切にしましょう。