降誕節第2主日礼拝説教

2023年1月1日

ルカによる福音書 2:21-40

「奉げられたイエス」

新しい年を皆さんと礼拝によって迎えられる幸いを主に感謝します。

年齢を数えるにあたり、今は一般的には満年齢を使いますが、数え年で言いますと私たちは今日、揃って一つ歳をとったわけです。日本人にとって正月のお祝いとは、みんなで無事に歳を越して、長寿に近付いたお祝いでもあるわけです。

では、元旦はキリスト教的にはどのような意味を持つ日なのかと申しますと、あまり前面に押し出される機会は無いのですが、イエスさまが割礼をお受けになった記念日として覚えられている日です。ユダヤの男の子は皆、生まれて八日目に割礼を受けました。とても神聖な儀式とされていましたので、仮にその日が安息日に当たっていた場合でも、新生児を神殿に連れて行って割礼を施していました。

また、ヨセフとマリアの夫婦は幼子イエスを抱いてエルサレムの神殿に行きました。出エジプト記に記されている律法によると、最初に生まれた男児は、それが人間であっても家畜であっても、神さまのために聖別されるべきと定められていました。この律法は神さまの恵み深い力を確認するという意味で理解されていましたが、カナンの土着の儀式に源を見られる風習で、子どもを神々に生贄として捧げていた時代の名残でもありました。しかし、家畜の場合はともかくとして人間の子どもを生贄にすれば当然のことながら子孫を残せなくなってしまいますので、その子の命の代わりに銀5シケルを神殿に納める習慣が残されました。

そして、出産後の女性は穢れていると考えられていたため、生まれた子どもが男の子であった場合には40日後に、女の子であった場合には80日後に焼き尽くす捧げものとして小羊と小鳩を持って神殿に登る必要がありました。ただし、小羊はとても高価であったため、それを奉げる財力が無い場合は小羊に代わって鳩を奉げれば良いとされていました。

これら三つの儀式は、私たちの目から見ると奇妙な風習のように思えますが、この背後には子どもは神さまからの賜りものであるという確信があります。

さて、マリアとヨセフが神殿に入りますと、シメオンという老人と出会いました。シメオンはいわゆる隠者で、神さまが御自分の民を慰めて下さる時の到来を、毎日の祈りと礼拝によって過ごして待っていました。

彼は「救い主に会うまでは死なない」というお告げを聖霊から受けていました。ルカが特にこのお告げを記しているということと、シメオン自身の「今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせて下さいます。」という発言から、彼が老人であったと推測されます。

長寿はユダヤの価値観の中にあっても神さまから頂く大きな恵みであると考えられていましたが、シメオンの言葉はあたかも世を去ることに喜びを見出しているかのように思えます。

あまりにも長生きすると、友人や親類が先だってしまう、親しい人を見送り続けて最後には自分だけが残されてしまうという場合もあるでしょう。新しい出会いも当然あるわけですが、取り残されてしまった寂しさの方をより強く感じる人も、中には居ます。

今日のもう一人の登場人物であるアンナもシメオンと同様に長寿の人物でしたが、彼女はかなり若い時、おそらく20代の時に夫を亡くしてから、再婚せずに生きて来ました。子どもが居たかどうかについては記述がありませんが、もし子どもが居たならば一緒に暮らしていた可能性が高いはずです。しかし、彼女は神殿を離れず夜も昼も神さまにお仕えしていたということは、子を授からなかったか、産んでいたとしても既に亡くなっているかのどちらかであると思われます。

一人になってしまった悲しみを神さまに慰めてもらいたくて、神殿で祈り続けていたのかもしれません。

今日、この二人は救いを見ました。人生の終盤に差し掛かって、救い主と出会いました。

シメオンには長く生きなければならないために背負う悩みや苦しみがありました。アンナには長く生きたが故に知ってしまった悲しみがありました。でも、二人はその悲しみや悩みを神さまに委ねて祈り続けました。そして今、二人に希望の光が注がれました。御子イエスさまとの出会いが、二人に安心と希望とを与えました。

シメオンは言いました。イエスさまの放つ光は、神さまを知らない人々にまで及び、照らします。

残念ながら世の中はまだ平らかだとは言えません。しかし、私たちの心は重荷を主に委ねて平らかでありたいと思います。2023年、平和を祈りつつ、喜びを持って過ごしましょう。

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