降誕節第4主日礼拝説教

2023年1月15日

ルカによる福音書 5:1-11

「人間をとる漁師に」

イエスさまはガリラヤ地方を回り、方々で宣教を始められました。その御言葉の恵み深さは、人づてに伝わり、主が居られるところには群衆が集まるようになりました。今日もイエスさまの周囲には多くの人々が集まります。

今日の舞台はゲネサレト湖です。これはガリラヤ湖の別名です。私たちにはガリラヤ湖という名の方が耳に馴染んでいますね。主はこの湖のほとりに立っておいででした。すると大勢の人々が主を取り囲みます。彼らは主の語られる御言葉を求めて集まったのです。なぜこんなにも大勢の人々が集まったのか。それは、彼らが主の語られる言葉を神の言葉であると信じるようになっていたからです。

彼らにとっては、主の御言葉を聞けるのであれば、それがどこであっても、会堂であろうとなかろうと、あるいはそれが安息日であろうとなかろうと、関係が無かったのです。それほどまでに、主の御言葉は人々の心を捕らえ、恵みを与えていたのです。

集まった群衆にもみくちゃにされそうになっている主は、周囲をご覧になりました。すると主の御目に二そうの舟が映りました。ちょうど漁師たちがその日の漁を終えて、漁に使っていた網の手入れと片付けをしているところでした。

その漁師の顔を良くご覧になると、それはつい先日、主を家にお招きし、しゅうとめを癒していただいたシモン・ペトロでした。主は良いことを思いつかれました。このまま群衆に揉まれていたのでは、ろくに話もできないし、人々の中には主の御言葉がまるで耳に入ってこない人も出てしまうに違いない。それよりも、舟に乗り、少し岸から離れたところから話しかけた方が、聞く人々にとっても聞きやすいだろう。

主はさっそくシモンに話しかけ、舟に乗せてもらい、その岸から少し離れたところに出してくれるように頼まれました。そして舟から岸に居る人々に語り掛けられたのです。

今でもそうですが、当時の漁村には舟を付けるための桟橋が必ずあったとは言えません。もしかすると、日本の砂浜でも見られるように、仕事を終えた舟は緩やかな傾斜地である浜に引き上げられていたのかもしれません。もしそうであるならば、舟に乗った主と、傾斜地に座って話を聞く群衆の位置関係は、ちょうど今のホールや映画館の階段状になった座席とその下にある舞台のようだったでしょう。

説教が終わると主はシモンにお命じになります。

「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい。」

釣りをなさる方ならご存知だと思いますが、魚には活発に動く時間帯というのがあります。それをマヅメと言います。夜明け前や日没前後の、日の光が弱い時間帯のことです。この時間帯には魚はエサを食べるために活発に動き水面近くまで上がって来ますが、これ以外の時間、日中などには比較的じっとしているようです。浅い池や湖などでは、湖底ちかくの岩の陰などに隠れています。それでは網を降ろしても、網は魚を捕らえることが出来ません。

すでに漁に適した時間を過ぎていました。しかも、最も魚が取れるはずの時間に一匹の魚も取れなかったことで、肉体的にも精神的にも疲れていたシモンですが、しゅうとめを癒してくださったあのイエスさまの仰ることですから、敢えて従って網を降ろしてみました。

降ろした網を引き揚げようとするシモンは、信じがたい手応えを感じます。網が重いのです。それも、1人では引き上げられないほど、無理に引き上げようとすると網が破れてしまうほどの重みを感じたのです。

これではダメだと考えたシモンは、岸で一緒に網の片付けをしていた、もう一そうの舟に、すぐに来て手伝ってくれるように合図をしました。もう一そうの舟に乗っていた友人たちの手を借りて、やっとの思いで網を引き揚げてみると、そこにはその重みで二そうの舟が沈みそうになるほどたくさんの魚がかかっていました。

なぜ主はシモンに声をおかけになったのか。たまたま知っている顔がそこにあって、頼みやすかったからでしょうか。そうではないと思います。主は最初からシモンをお召しになったのです。なぜ主は、その日の漁でくたびれ果てているシモンに、敢えて網を降ろすように仰ったのでしょうか。もうクタクタなのですから休ませてやっても良かったのに。

以前、ある方のご葬儀でお仕えした際に、葬儀とは何なのかということを考えさせられました。神学生であった頃にも、またそれ以前にも教会での葬儀に関わることはありましたし、キリスト教は葬儀をどのような位置付けに置いているのか知識では知っていましたが、その知識だけでは満足できなくなり、納得のできる答えを模索したのです。

仏教においては、亡くなった人の供養のために、つまりの死者のために葬儀を行いますが、キリスト教においては遺された人に慰めを得させるために葬儀を行う。一般にはそう考えられています。しかし、それだけではないと今は考えています。

大きく二つの目的のために、上手く言えませんが、その目的を「天のため」そして「地のため」と仮に名付けました。

「天のため」とは、亡くなったその人の人生は確かに神様の御手の中にあって、その人は人生の全てを用いて主の栄光を表したのだということを明らかにするということ。

そして「地のため」とは、亡くなったその人の人生は確かに神様の御手の中にあって、その人は神様の愛の内に生きたのだということを明らかにすること。

これら二つの事柄を、そこに集まった会衆に語り掛ける事。亡くなったその人を通して神様が語られる説教。言わば、亡くなったその人によって説教がなされる場が葬儀なのではないかと考えています。

そしてもう一点。神さまの栄光と人への関わりを語るのは説教だけではないということにも気付かされました。

ある教会員が天に召された時のことです。教会で前夜式と葬儀告別式が営まれました。そこでご遺族が話されました。

「それまで好き勝手なことを言ってバラバラだった家族が、ママが病気になったことで一つになった。」

その方は15年間もの間、難病と闘っていましたが、彼女の口にはいつも感謝の言葉があったそうです。看病してくれる家族への感謝、往診してくれる医師や看護師への感謝、何よりも神さまへの感謝。

もちろん、病気になどならない方が幸せだったでしょう。長年病気と闘わなければならない苦しみ、その末に送り出さねばならない苦しみと悲しみは、私には想像も付かぬほど大きなものであったに違いありません。しかし、ご遺族からこれらの話を聞いた時、主が御心のためにその方を召し出されたのだと、そう確信しました。

この人を通して、神さまはこの家族に愛を満たされたのだ。この方は、この家族にあって神様の愛を表し続けたのだと感じました。病気でクタクタになりながらも、この方はイエスさまに従って網を降ろしたのです。するとその網を愛が満たしたのです。

そしてその時、収穫すべき愛があまりにも大きいから、二そう目の舟として家族みんなを呼び集めたのです。みんなで一緒に愛を引き揚げた。その偉大な仕事を終えて、その方は天に召されたのだと、私は信じています。

人生を通して神様の愛を表す。これは、私たち全てに与えられた仕事です。使命です。私たちにはその使命は大きすぎて、主の御心に応えることができないとひるんでしまうかもしれません。シモンも自分が罪深い者であると告白し、主に離れてくださるようにお願いをしています。しかし主はそのシモンを召し出されました。そのシモンだから召し出されました。そして、イエスさまはシモンを召されたように、私たち全てを召し出しておられます。私たち全てがシモンの舟であり、また互いに二そう目の舟なのです。

主が私たちを選ばれたのです。主が私たちに期待しておられるのです。御心に応え、網を打つ者、人を取る漁師となりましょう。

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