2023年1月29日
ルカによる福音書 21:1-9
「崩される神殿」
今日、イエスさまは、貧しい女性の捧げた献金と壮麗な神殿とを対比することによって、私たちの信仰生活において何を足場とするべきかを教えてくださいました。イエスさまは今、過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムの神殿に居られます。エルサレムに入城なさる時、人々は歓呼の声をもってイエスさまをお迎えしました。イエスさまは神殿の境内で、集まった人々に教え、福音を告げ知らせておられました。すると祭司長や律法学者、長老たちが近寄ってきて、イエスさまを陥れようと議論を仕掛けます。まるで罠のような質問を浴びせ、少しでも隙を見せればそれを口実にイエスさまを捉えてしまおうと狙っていますが、イエスさまは罠をことごとく見事に退けられました。
議論を終えたイエスさまは目を上げて、人々が献金をするために集まっている様子をご覧になりました。そこには13基の賽銭箱が置かれていました。この賽銭箱はラッパのような形をしており、投げ込まれたコインが中に落ちると、その音が共鳴して響くような構造になっていました。たくさんのコインを入れた時には、より大きな音がします。
イエスさまがご覧になっていると、豊かとは思えない身なりの女性がレプトン銅貨を二枚、賽銭箱に入れました。銅貨はコトンと、控え目な音をたてました。
レプトン銅貨はユダヤの通貨の中では最も小さな金額のコインでした。当時の規定によれば、レプトンのような小さな金額は施しとして貧しい人に与えることが禁じられるほどの小さな額です。彼女はどんな気持ちでレプトン銅貨を神さまにお捧げしたのでしょうか。きっと、誰よりも畏まって捧げたことでしょう。
しかも、2枚のレプトン銅貨は彼女にとって、その日の生活費の全てでもありました。それを見て取ったイエスさまは仰います。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」
彼女は自分の持てる物すべてを投げ打って神さまにお捧げしたのです。
賽銭箱に大きな音を鳴らさせている金持ちたちは、有り余る中から捧げていますから、大きな音をさせるほど入れても痛みを感じません。それどころか、大きな音をさせているということによって快感を得るでしょう。それに比べて、このやもめは、今日一日を飢えて過ごさなければなりません。自らが飢えてでも神さまの御用に立ちたい、その願いをイエスさまは読み取られたのです。それほどに強い信仰の足場を彼女は持っていました。イエスさまはそれを誉められたのです。
イエスさまが福音を宣べ伝えられた当時の神殿は、ヘロデ大王によって計画された大規模な改修工事が行われている最中の神殿でした。もちろん、既にヘロデ大王は既に死んでいますが、紀元前20年頃に着手したこの工事は、イエスさまの当時に至ってもまだ完成していないほどの大規模な工事だったのです。
ヘロデ大王はハスモン王家に代わってユダヤを支配しました。統治の始めは、国内に旧王家や敵対的な姿勢を示す貴族たちが居たため、これらの中のある者は懐柔し、取り込めない者は排除し、支配の基盤を固めようとします。紀元前20年ごろになると、敵対勢力をことごとく粛清し、統治の安定期を迎えます。
大きな敵を一掃したヘロデ大王が次に考えたのは、民衆からの人気を得ることです。ユダヤの人々は、ただでさえ一致しない人々でした。その上、激しやすく、一度火が着くと殺されるまで怒り続けるような性質がありました。そんな彼ら全員の心を買う手段があるとすれば、それはあらゆる立場を超えて尊ばれている神殿の整備がそれでした。
ヘロデ大王による神殿の整備には、地盤沈下の補修など実用的な工事も含まれていますが、とにかく見栄えを良くすることに心が砕かれており、その荘重さは「ヘロデの建物を見たことがないものは誰でも、決して美しいものを見たとは言えない」ということわざが生まれたほどで、地中海世界全体で大評判となりました。この結果、ディアスポラのユダヤ人、つまり在外ユダヤ人やユダヤ人ではない人々までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになりました。これらユダヤ教徒ではない外国人のためのスペースとして「異邦人の庭」が設けられていました。
この工事はヘロデ大王の死後60年以上経った紀元64年になってやっと完成するほどの大規模な工事でした。
たくさんの人が立派な神殿に集まります。そして、たくさんのお金も集まります。特に外国人が集まる異邦人の庭では両替が行われており、また生贄として捧げられる動物が高値で売られていました。人々が信仰の場として尊んでいた神殿は、今や大規模な集金システムとなってしまっています。
一人の人間の目論見によって派手に飾られた神殿は欲望の庭と化していました。もはや信仰の中心、信仰の足場としての機能を失っています。だからイエスさまは宮清めをなさったのです。そして神殿の将来について予言をなさいます。
「一つの石も崩されずに、他の石の上に残ることのない日が来る。」
果たすべき役割を失ったものは、それが建物であれ組織であれ、形を失います。まして、信仰の場としての機能を失った神殿を神さまが放置なさるでしょうか。9節で戦争について言及しておられますが、紀元66年にユダヤはローマに対して反乱を起こします。ユダヤ戦争です。戦争が始まって4年後の紀元70年、この神殿はエルサレムの都の大部分と共に破壊されます。
もちろん私たちは信仰と欲望とを繋げて考えようとは思いません。私たちの信仰を、富を得るための手段にしようとは考えません。
しかし、教会の果たすべき機能については、今日の御言葉は私たちにとって重要な示唆を与えていると思います。
そして、私たち自身もここに来れば安心できるというような場を、これからも大事にし続けなければいけないのです。誰でもここに来て、良い何も持たずに来てもよい。あなたがここに来さえすれば、そのことを喜ぶ方がおられるのです。
今日、やもめは2枚のレプトン効果を賽銭箱に入れました。
その音はきっと小さかったと思います。しかし、その小さな音をこそ尊んで良いものだと言ってくださる方がおられる。だから、私たちも同じように私たちをお捧げできるものがほんの小さなものであったとしても、私たちがここに来て主に賛美を捧げるならば、ここに集まってる人たちと一緒に祈りを捧げるならば、そのことをこそ神さまは喜んでくださる。この教会はそのような場であるべきなのです。
そして、その時その場で捧げられる礼拝は、そしてそこで実現される交わりは、富める人が捧げた大きな音よりもはるかに良い音として、この秦野にあって響き渡るはずです。
私たちが持っているものは決して多くはありません。でも、そのことで自分自身を卑下してしまったり、過小評価するべきではありません。私たちがどのように思おうとも、その時が来たならば、私たちのことを神さまは必ずお用いになるから。そして小さな音でも、澄み渡るその音は、きっとそれを聞く人の心の中にある憂いや悩みを払うに違いないから。だから、どのような時も、私たちはここでの礼拝を大事にしたいのです。
そして、実際にここに来ることがなかなか難しい人とも一緒に礼拝の時間を、この特別な時間を分かち合えるように、この礼拝堂の窓をより大きく広げたい。それが私たちの持つべき望みであり、私たちのなすべき挑戦なのです。より多くの人に主の福音が届けられ、それをより多くの人と分かち合える日が来るよう願って、そのために私たちを用いていただけるよう願って祈りを捧げましょう。