2023年1月8日
ルカによる福音書 3:15-22
「聖霊が鳩のように」
洗礼者ヨハネは福音の先駆けとして遣わされ、救いを求める人々に洗礼を授け、悔い改めを呼び掛けました。その言葉は非常に厳しく、集まった人々を蝮の子と呼び、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない者はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と警告しています。その一方で、悔い改めた者としてどのような生き方をすれば良いのかという質問に対しては、「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」と、言わば物惜しみせず小さな親切を行えと答え、また徴税人に対しては「規定以上には取り立てるな」、兵士たちに対しては「誰からも金をゆすり取るな。騙し取るな。自分の給料で満足せよ。」と、至極普通の生活をせよと教えています。
おそらく、当時のユダヤ社会においては利己主義が蔓延し、強い者が弱い者から、持つ者が持たない者から掠め取るのが常識化していたのでしょう。この時代、外国からの圧力以上にユダヤ人自身が自分たちを苦しめていた可能性すらあります。
実際、イエスさまはローマなど外国の力に対してはほとんど発言をなさっていません。わずかに「皇帝のものは皇帝に」と、税について述べられた程度で、それとてローマを批判する意図で発せられた言葉ではありませんでした。
腐敗した社会を改めなければならない。民衆の多くがそう思っていたので、ごく当たり前のことを訴える洗礼者ヨハネの言葉に感動し、彼こそメシアなのではないかと考え始めました。その思いに対してヨハネは、より優れた方がおいでになる、その方こそメシアであると答えます。
「その方は手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
どうしても「火で焼き払う」という言葉に私たちは恐怖を覚えます。ヨハネは悔い改めを呼び掛けていましたので、悔い改められない者は滅ぼされてしまうと解釈し、自分は大丈夫だろうかと不安に思ってしまうのです。
しかし、ここで言う殻とは、私たちが生まれながらに持っている罪や、悪い思いのことです。ヨハネの後に来る救い主は、籾から麦の実と籾殻とを分けるように、全ての人から罪を取り除いて火で焼き払い、実である私たちを清めて下さるのです。そして、清められた私たちは一粒残らず、一人残らず神さまの御倉に迎え入れられるとヨハネは予告しているのです。
ヨハネはあくまでも福音の先駆けであって、真の救いは後に来られる方、つまりイエスさまによって完成されるのです。人々はイエスさまが来られるまでの間、洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾けていました。
しかし、ヨハネは投獄されてしまいます。領主であるヘロデと、彼の兄弟の妻へロディアとの関係について強く批判をしたからです。
この辺りの関係を少し整理させてください。ここで言うヘロデとは、イエスさまがお生まれになった時にユダヤの王であったヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスを指しています。ヘロデ大王の死後、ユダヤは4つに分割され、3人の息子とヘロデの妹によって分割統治されますが、兄弟間に争いがあり、長男アルケラオスは弟アンティパスと対立します。アルケラオス、アンティパス双方がユダヤの王位を望んだために起きた争いです。
後にアルケラオスは失政によって住民から訴えられ、ローマによって領主を解任され追放されます。このため、アルケラオスが王位に就く可能性は極めて低くなりました。アルケラオスの妻はユダヤの王妃となることを強く望んでいましたが、そのチャンスが失われたことを不本意に思っていました。
一方で弟はチャンスが巡って来たことを喜びますが、ダメ押しとして王となるべき理由を強化しようと考えます。そこで兄の妻に目を付けます。実は兄の妻ヘロディアはヘロデ大王が王となる前にユダヤを統治していたハスモン王家の血筋であり、しかもヘロデ大王の孫でもあったので、王の血統を強めるという意味でヘロディアとの結婚は弟アンティパスの王位継承にとって有利に働くと考えられました。
領主ヘロデ・アンティパスとヘロディアとの間に利害の一致が生まれました。洗礼者ヨハネは、この結婚を不純であり家族の関係を危うくさせるものとして強く批判したのです。
ヘロデ・アンティパスは目障りなヨハネを投獄してしまいました。
さて、ルカは時系列を前後させてイエスさまの御受洗について述べています。当然のことながら、イエスさまがヨハネから洗礼をお受けになったのは、ヨハネが投獄される前の出来事でした。
ルカは民衆の洗礼とイエスさまの御受洗とを同じように並べて記しています。イエスさまは御自身を高見に置くことなく、洗礼を受ける人々の列に連なり、彼らの思いを深く理解しながら洗礼をお受けになったのです。
すると天が開け、聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえます。「わたしの心に適う者」とは、イザヤ書42章に「わたしの喜ぶわが選び人」に由来する言葉ですが、ここで神さまに選ばれた人は同じくイザヤ書53章にある「主の僕」に繋がっていきます。
聖霊が鳩のように下った瞬間に、人々の罪を身に背負って苦しみを受ける苦難の僕としての役割がイエスさまに負わされました。
ヨハネは救い主が来て人々の罪を取り除いてくださると予告していましたが、イエスさまは御自身が人の罪を背負い、火のような苦しみを通って十字架で死なれたことによって、私たちの罪を取り除き、神さまの御倉に納めてくださるのです。
イエスさまに聖霊が注がれた今日から、昇天し聖霊が弟子たちに注がれるまでの期間、私たちは福音書を通してイエスさまの公生涯を見てまいります。
イエスさまは御生涯の大事な場面で祈っておられました。今日の御受洗の場面でも祈っておられました。私たちもまたイエスさまがなさったように、祈りつつ神さまの導きを受け止めたいと願います。そして、私たちが自分では取り除けなかった罪深さを代わって身に負ってくださったイエスさまに感謝しつつ、ヨハネの勧めたほんの小さな善意を忘れることなく、日々を歩んで参りましょう。