2023年10月1日
ヤコブの手紙 2:1-9
「共に座る者」
今日の御言葉の言わんとしている事柄は極めて明瞭です。ヤコブは、人をその外見や社会的な地位によって分け隔てしてはならないと戒めています。ヤコブは仮定の話として例を示していますが、それはきっと当時の教会にあって実際に起きそうなことで、この手紙を読む人にとっても想像しやすかっただろうと思います。ヤコブは、「神さまは誰かを特別に高めたり低くしたりはなさらない。豊かな人も貧しい人も等しく神さまに愛されているのだから、教会も誰かを特別扱いしたり、軽んじたりしてはならない」と律法も教えているし、イエスさまもそのように教えておられたはずだと伝えたかったのです。この手紙は長い間あまり重要視されてきませんでした。宗教改革の立役者であったルターでさえ「藁の書」と読んで、正典から外そうとしたくらいです。しかし、その評価は誤解であったと言わざるを得ません。ヤコブがこの手紙の中で律法に基づく行いを強調しているために、信仰義認の教義を軽視しているように見えたので、ルターはこの手紙の扱いに困ったのだろうと想像します。ヤコブは信仰義認の教義を否定しているわけではありません。あくまでも信仰を前提とした上で善を行うように勧めているのです。この勧めの背景には、信仰義認の教義を曲解する人たちの存在がありました。彼らは、「神さまを信じてさえいれば何をしても良い」と考えて倫理に反する行いをし、しかもその上で自分たちをキリスト者であると誇っていたのです。ヤコブはこのような考えを強く戒めようとしたのです。福音に基づく律法の理解は私たちにより良い生き方を教えてくれるのだから、決して無視して良いものではないと教えようとしたのです。
この手紙のテーマの一つに、「貧しさと富」についての議論があります。この当時、「神さまに愛されている者は豊かさを与えられている。貧しい人は神さまに愛されていないから豊かさを与えられていない。」という考え方がありました。そのために、貧しい人はどこに行っても邪険に扱われていたのです。もしかすると教会によっては、豊かな人に対する態度と貧しい人に対する態度を使い分けていたようなケースもあったのかもしれません。あくまでもヤコブは仮定の話をしているのですが、あるいはそのような出来事があったという話をヤコブの耳に届いていたという可能性もあります。
それは打算に基いた行いであったかもしれません。「金の指輪をはめた立派な身なりの人」が登場していますが、これは当時のパレスチナに良く見られた典型的な金持ちの姿です。金持ちはその豊かさを誇るかのように装飾品を着けていました。特に指輪は社会的な地位をも示していました。例えば議員や官僚などは大きな宝石を嵌め込んだ指輪を着けていたそうです。この人がどの民族の人なのかは分かりませんが、その土地の有力者や、中央から派遣された役人であったかもしれません。この人を迎え入れた教会員は、彼を快適な場所に案内しました。こういう人の好意を得られれば、今後様々に便宜を図ってもらえる可能性もありますから、特別扱いすべきだと考えたのでしょうが、それでは本当の意味でその人を迎え入れているとは言えません。彼を案内した人は、その人の向こうにある権力や富を見ているのであって、その人自身が尊重されているわけではないからです。
では貧しい人に対する態度はどうでしょうか。1世紀後半ごろの教会には、そもそも貧しい人が多く集まっていましたが、その彼らから見ても更に貧しいと思われるような人が教会に入って来ました。もしかすると、この人の着ていた服はボロボロで垢染みていて悪臭を放っていたのかもしれません。この人は会堂に入るとすぐに「入口のそばに立っていろ。座りたかったら、私の足元にでも座ってろ。」と言われてしまいました。あからさまな差別です。礼拝への出席を拒否してはいませんが、これでは到底迎え入れているとは言えません。邪魔者扱いをされています。このような扱いは利己的な思いに基づくものであり、教会的な判断とはとても言えません。このような扱いを受ける人が居る、そしてこのような状態を問題とも思わないのであれば、この教会は教会であるための、つまりキリストの体であるためのよりどころを放棄してしまっているとしか言えません。
教会のよりどころは福音そのものであり、これに対する信仰告白です。第1節には「栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら」とありますが、この栄光とは地上においてイエスさまが生きられた御姿そのものです。イエスさまは貧しい人を遠ざけられたでしょうか。むしろ「貧しい人こそ幸いである」と仰ったはずです。全ての人が迎え入れられ、尊重される。世によって疎外された人は特にです。それこそが福音であったはずです。この福音を信じるからこそ、教会は教会たり得るのですから、どのような理由があろうとも誰かを立たせたままであったり、足元に座らせたりして良い道理が無いのです。全ての人を尊重できないようでは、教会とは言えないのです。
このお話はあくまでも仮定の話、例えであったはずですが、6節ではあたかも実際に起きたかのように断定的な言葉で告発しています。この告発はいつでも私たち自身に向けられます。さすがに貧富の差をもって差別するようなことは無いと思いますが、差別の理由はいくらでも転がっています。青年時代を過ごしたある教会での出来事を少しお話したいと思います。
その教会では教会学校の活動がとても盛んでした。活動の中心は、いわゆるお母さんたちでした。今まさに子育てをしている二十代後半から三十代のお母さんも居れば、既に子育てを終えた60代のお母さんも居ました。男性は私ともう一人、20代の青年が居ただけでした。彼は明るい人でしたが、時々際どい冗談を飛ばすので、大人たちからは軽く見られていた節がありました。
ある時、教会学校のスタッフ会議で、その夏のキャンプが議題となりました。そこでその青年が「キャンプには中高生も来るから、救急箱の他に万が一に備えて生理用品を用意しておいた方が良いのではないか」と提案しました。すると多くのスタッフ、つまりお母さんたちが「まさかあんたがそんなこと言うとは思わなかった」と言って笑い、「要らないでしょう」と言ってまともに取り合いませんでした。おおよそこういう時には、誰かが彼に賛同したとしても無力です。会議の後に男同士で「そうじゃないんだけどなぁ」とボヤくくらいしかできることはありません。実際には必要になってしまったために、彼は二重に口惜しい思いをしてしまいました。ここで見られる差別の構造とは、「発議の内容ではなく、誰が言ったかによって取り扱いを変える」という差別です。全ての人が尊重される、全ての意見、考え方が等しく受け止められ、尊重される、それが教会のあるべき姿なのです。
私たちはイエスさまによって受け容れられ、救われています。それが分かっていても、どうしても打算や自分の好き嫌いで本来聞かれるべき声を聞こうとしなかったり、本当であれば一番先に良い知らせを受けるべき人を後回しにしてしまったりしてしまいます。そのサインは不快感や違和感であろうと思います。「お前はそこに立っているか、わたしの足元に座っていろ」と言った人は、貧しい人が会堂の真ん中でみんなと一緒に座ると、みんなが不快になると思ったのでしょう。自分自身が不快になるのだから、みんなが不快になるはずだと思ったのでしょう。彼が目を向けるべきは、その人を不快に思う自分自身の心でした。「生理用品を買っておいた方が良いんじゃないか」という提案を聞いた人たちは自分たちの抱いた違和感にこそ目を向けるべきでした。人の関係はおおよそ対称的なものです。自分が不快感や違和感を抱いている時には、相手もまた不快感や違和感を抱いているものです。その感じが疎外感や断絶にまで育ってしまう前に私たちは気付くべきなのです。その気付きへのヒントを律法は与えてくれるのです。信じてさえいれば良い。後は知らない。そうではなく、信じる者として、他者への洞察が、特に居場所を求めて教会にたどり着いた人に対しては可能な限りの洞察が必要なのです。
確かに私たちには限界があります。しかし、私たちが一緒に座って「御言葉をください」と祈るならば、「一つにしてください」と祈るならば、神さまは必ず私たちの願いに応えてくださいます。