2023年10月15日
フィリピの信徒へ手紙 1:1-11
「義の実を受けて」
人の世には受け入れられない何かが存在していることは事実として認めざるを得ません。それは人間同士の間に生じる不正かもしれませんし、偶然生じた不具合かもしれません。自然現象が人に害を与えた時にも、私たちはそれを「悪い出来事であった」、つまり悪と評価します。いつから人間は「この世には悪が存在している」という世界観を持ったのかを、歴史を遡って考えてみても答えは出せません。私たちの信仰の書である聖書を、人間の精神活動の記録として見てみますと、創造物語の直後に既に「罪」という悪が描かれていますから、人間と悪の付き合いは歴史の始まりから続いていると言えるでしょう。同時に、人間は悪の解決を願い続けてきました。誰か超人的な人間の力によって、あるいは人間を超えた何者かの力によって、地上に存在する好ましくない状態が完全に解決される日の到来を待ち望んでいたのです。
その日の到来への期待感は時代によって強くなったり弱くなったりします。パウロの時代には、その期待感は大きくなっていました。それは不満と満足のバランスが崩れてしまったとも言い換えられます。ヘロデ大王の時代、ユダヤはそれなりに安定していました。ユダヤは実質的にはローマの支配下にありましたが、ヘロデ大王は優れたバランス感覚によってユダヤ人に不満を生じさせないような統治をしていたからです。その息子であるアグリッパも父の方針を受け継いで、それなりに上手な統治をしていました。
しかし西暦44年にアグリッパが死去すると、ユダヤはローマの直轄領になります。ローマは支配下にある民族に信仰の自由を与えていましたが、直接の支配を受けるとユダヤ人はローマに対する反感を募らせます。それまでは、ヘロデ大王とその息子がローマとユダヤの間にあってクッションの役割を果たしていたのですが、そのクッションが無くなった途端にユダヤ人はローマに対して不満を募らせ、ついに西暦66年に反乱を起こします。フィリピの信徒への手紙が書かれたのは、アグリッパの死去と反乱勃発の間の時代、つまりユダヤ人に不満が渦巻いていた時代です。
パウロはこの手紙を牢獄の中から書いています。フィリピの教会の人々が囚われているパウロに差し入れを送ったので、それに対するお礼の手紙が、このフィリピの信徒への手紙です。フィリピに限らずパウロは方々の教会に手紙を出していますが、この手紙は他の手紙とは少し雰囲気が違います。他の手紙が書かれた目的は多くの場合、教義の説明であるとか、教会の中に生じた問題の解決のためであったのに対して、この手紙にはそういう傾向が見られません。ただ、パウロは神さまからの恵みを述べています。牢獄の中にあるにもかかわらず、パウロは神さまの恵みを感じ、感謝の祈りから手紙を始めています。パウロにとっては宣教のために、つまりキリストのために受ける苦しみは来るべき救いを予感させる良い知らせだったでしょう。
ルカは「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」というイエスさまの御言葉を記録しています。パウロは今自分が受けている苦しみは、イエスさまの御苦しみに与るものであると考え、またノアが大水をくぐり抜けたように自分も救いへと招き入れられると確信していたのです。パウロは投獄の苦しみという好ましくない状況を悪であるとは見做していませんでした。更に、自分だけが苦しんでいるとか、自分だけが救われるとも考えてはいません。神さまはフィリピの人に対して、それぞれの生活の中で苦難と喜びを用意され、それらを通して最後には恵みのうちに迎え入れてくださると確信しています。
それはフィリピの人々が特別だからではありません。フィリピの教会も、他の教会と同じように問題を抱えていました。例えば有力な女性同士の争いや、異端の教えに影響されそうになっているという心配もありました。決して完全な教会であったわけではなく、やはり少なからず満たされない部分もありました。葛藤があり、悩みがありました。苦しみは嬉しいものではありません。苦しいものは苦しいのです。不満は、満たされない気持ちは私たちを悲しませ、怒らせます。イヤなものです。しかし、苦しみや不満から解放される時が来るのです。
パウロは、そんな満たされない者たちのためにこそ、十字架による贖いの御業が成し遂げられると断言しています。
「あなた方の中で良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると確信しています。」
良い業を始められたのはどなたでしょう。聖霊です。聖霊は何故わたしたちに良い業を為して下さるのでしょう。私たちの祈りに応えて良い業を行って下さるのです。良い業はフィリピの教会の始まりの時にだけなされたわけではありません。常に聖霊は働き続けています。その聖霊が更なる働きによって、フィリピの人々のこれからの歩みにおいて必要な賜物を与えてくださるようにとパウロは祈って居ます。その賜物とは、知る力と見抜く力です。今自分たちの置かれている状況、目の前で展開している出来事を正しく認識し、その向こうにある人々の思いと、何よりも神さまの御心を見抜く力が与えられるように祈って居ます。また、それによってより多くの愛を、神さまの御心を行える者となるように期待してもいます。
世の中が完全な状態になった試しなど、人間の歴史の中で一瞬たりともありませんでした。この手紙が書かれた時代を歴史家は「ローマの平和」と呼んでいますが、本当の意味での平和などありませんでした。教会の中にも、教会の外にも満たされない気持ちを持った人が居て、衝突していました。
パウロたちにとって世界は全然平和などではなく、むしろ「神さま、早く平和を実現してください。御自ら裁きを行い、地上から悩みや苦しみを一掃してください。」と祈る日々だったでしょう。イエスさまの十字架の出来事に彼らは裁きの日の到来を予感し、すぐにもそれが起こると期待していましたが、待てども待てどもその日は来ませんでした。それ以来、キリスト者は裁きの日の到来を待ち続けています。私はパウロに共感します。私は東西の冷戦が終結した時に「ついに一致の時代が始まる、世界は平和になる。」と期待しましたが、実際には別の分裂、別の戦いが始まってしまいました。世の中は相も変わらず私たちの心に不満を生じさせます。そんな状態だからこそ、私たちは今日のパウロの姿に意味を見出します。
パウロは苦しみの中にあっても神さまからの恵みと、お互いのために注がれる優しさに目を向け、それを喜びました。人の世に蔓延る悪に目を奪われるのではなく、その向こう側にある神さまの栄光を見ようとしました。人の愛を見ようとしました。同じように、フィリピの人々にも満たされない気持ちを超えて、イエスさまが十字架の上から与えてくださる義の実である御救いを味わい、喜ぶように、また喜ぶ姿を通して世に対して証する者と作り変えられるように祈っています。
私たちもまた祈ります。知る力と見抜く力とを与えてください。どうか義の実を溢れるほどに与えてください。全てを創造された神さまへの賛美を与えてください。