聖霊降臨節第22主日礼拝説教

2023年10月22日

ヘブライ人へ手紙 11:32-12:2

「私たちに用意されたもの」

私はスポーツが苦手です。瞬発力にもバランス感覚にも劣っているため、球技などは特に苦手です。もちろん自衛官であった時には職務の一環として体を鍛えていたわけですが、それでも筋肉が付きにくい体質であることもあって、体力的には及第点を取るのがやっとというような感じでした。

海上自衛隊に入隊してすぐの新隊員は、全国4か所の教育隊に集められて基礎的な体力と知識を身に付けるための教育訓練を受けます。横須賀教育隊には関東以北の町々から何百人という若者が集まり、教育課程ごとにいくつかの分隊に分けられて訓練を受けました。それぞれの訓練科目ごとにクライマックスが用意されており、座学であれば試験、体を使う訓練であれば諸々の競技会が訓練期間の終わりに実施されました。教育隊とは面白いところで、教官たちは座学については赤点さえ取らなければ良いというような姿勢であったのに対し、体育については他の分隊には負けてはならないとばかりに学生たちを鍛え、競わせていました。

いわば体育会系的な雰囲気が濃厚な教育隊にあって、日々の生活や訓練が苦痛であったかと言いますと、必ずしも苦しいばかりであったわけでもありません。時には私よりも遥かに優れた仲間を出し抜くような場面も与えられたからです。最も強く印象に残っているのは、夏の暑さの中で行われた持久走の訓練です。

水泳や球技では私には全然勝ち目が無かったので、どちらかというと要領よくこなす感じで訓練を受けていましたが、教育機関の半ば頃に「持久走だったら勝てるかもしれない」と希望を持てるような出来事がありました。教官の助言で走るフォームを変えてみた所、タイムを大幅に短縮できたのです。目に見える成果が上がればやる気も出てきます。そしてやる気をさらに後押ししたのが、猛暑でした。とても暑いその日、仲間たちは暑さのために力を発揮できなくなってしまったのです。それまでの私は走るたびに同期たちの背中について行くのがやっとでしたが、その日は違いました。最初の方こそ同期たちは私の前を走っていましたが、徐々にペースを落としていきました。私はと言いますと、前を走っている仲間の背中が近付いてくるので、「これはもしや」と思い意地でもペースを保って走りました。すると1人、また1人と追い抜けるようになったのです。

私だって暑さが辛くなかったわけではありません。とりあえず完走だけすれば良いやと何度思ったか分かりません。それでも、ちょっとだけチャンスを上手く掴みたかったのです。1人だけ抜きたかったのです。1人を抜いたらペースを落とそうと思って走りましたが、実際に追い抜くと、「もう1人だけ抜けないか。」という気持ちが芽生えました。これを繰り返すうちに、なんとゴールまでたどり着いてしまったのです。結果を見てみますとタイムで見ても自分の新記録を更新しており、順位で見ると上位1割に食い込むという快挙でした。それは、仲間たちが好調であったならば、やっぱり埋没していただろうタイムでしかありませんでしたが、それでも私にとってはとても嬉しい結果でした。

今日はヘブライ人への手紙第11章の最後と第12章の最初の部分が読まれました。12章1節では信仰の旅を「競争」と表現していますが、これは実に深い意味を持つ言葉選びであるように思います。

11章の冒頭で著者は信仰とは何かを論じています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とありますが、望んでいる事柄、すなわち希望は私たちが目指しているゴールと言い換えられると思います。何を望み、何に希望を置いて歩むのか、何を目指しているのか、それは生きる目的と言っても良いでしょう。信仰はそれらを私たちに示します。そして、私たちの道行のあらゆる場面において私たちの目には見えない力が存在し、働いている事実に気付いた時、私たちから絶望が遠ざけられ、自由と平安が与えられるのです。この自由は気ままを行えるという意味ではありません。神さまの御心を自ずと行えるようになるという意味です。

11章4節からは信仰によって歩んだヘブライ人たちの祖先が列挙されています。今日読まれた箇所で申しますと、カナンに定住し始めた時期にヘブライ人たちを導いた士師たち、繁栄を極めた王国期の王が挙げられ、また王を支え、時に戒めた預言者たちの名前が記されています。これらの人々は信仰によって敵に打ち勝ちました。中には人間の力では到底乗り越えられない危機を乗り越え、勝てない戦いに勝った者も居ます。この人たちは正義を行ったと評価されていますが、それはヘブライ人たちに神さまの御心を示し、よく導いたという意味です。彼らは信仰を土台として勝利を得、人々を導きました。

獅子の口をふさいだのはライオンの洞窟に放り込まれながらも傷ひとつ追わなかったダニエルです。燃え盛る火を消したのは炉に投げ込まれたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人です。この三人とダニエルについてはダニエル書に詳しく記されています。弱かったのに強い者とされたのは、攻め寄せて来たアッシリアの陣営に赴き、敵の将軍ホロフェルネスの首をはねた女性、ユディトを指しています。これらの人々は自分を傷付けようとする恐るべき力に打ち勝ちました。死んだ身内を蘇らせられた女とは、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめと、エリシャに子を生き返らせてもらったシュネムの女です。彼女らは絶望を希望に変えて頂いて、信仰という人生の土台を築きました。

人生の土台が神さまの御力によって築かれ、その上で生きていく様子をこれらの人々の生涯から読み取れますが、特に注目すべきなのは36節と37節に挙げられている人々であろうと思います。ここでは例えばのこぎりで挽かれたと言われる預言者イザヤや、エリヤの時代に剣で斬り殺された預言者たち、人の社会では安全を保てなくなってしまったエリヤやエリシャの名が挙げられていますが、これらの人たちは個人的には勝利を得ていません。むしろ人生において敗北しているように見えますが、彼らの生涯の歩みの向こうで彼らの神は勝利しています。

目の前で起きている事柄においては、これらの人々は人生に負けたように思えます。普通ならば途中でその道を投げ出してしまってもおかしくないはずですが、彼らは信仰という土台が固く据えられていたので、彼らは生涯を通して確かに神さまの御力が発揮されていることを、時代を超えて語り続けています。この土台は人が築く土台とは全く異なります。今の世の中においては民主主義が社会を形成する土台となっています。そこでは多数の意見が共同体の意志と考えられていますが、神さまの御目においては多数派が完全に正しいとは決して言いきれず、逆に少数派だから正しいとも言えません。この世の智恵や力によっては神さまの御心は知り得ないのです。私たち信仰者の人生の土台は、人間がこれまでに考え出した理屈によっては築けないのです。私たちの土台はこの世には存在しません。しかし、それは確かに存在します。その土台とは福音です。イエスさまの御救いです。あなたが既に福音と出会い、御救いに与っているならば、あなたを救ったイエスさまの御言葉が、あなたを救い出したイエスさまの御手があなたの土台となります。

私たちにとっての敗北とは何でしょうか。それは愛を行えなくなってしまうことであろうと思います。大きな困難、大きな悩み、苦しみが私たちの行く手を阻む時、ついつい走るのをやめてしまおうかと思ってしまいます。愛を行えなくなってしまう。歩いてしまえば楽になる。それでも一応ゴールには着くじゃないか。愛を行えなくなったとしても生きていけるさ。それは大変な誘惑です。息が上がり、体が水を求めるのに飲むわけにはいかないという苦しみ。そんな時には誰だって走り続けられなくなってしまうと思います。それでも、小さな力であっても地面を蹴っていれば必ずゴールにたどり着けるはずです。イエスさまが私たちの一歩二歩先に居られて、この背中に追い付いて御覧と声を掛けてくださいます。「あの時の私との出会いを思い出して、もう一歩だけ頑張って御覧」と声を掛けてくださいます。私たちが少し頑張って追い付くと、またイエスさまは「ほらもう一度」と応援してくださいます。それを繰り返しているうちに、私たちは馳せ場を立派に走り終えているはずです。人生は小さな一歩の繰り返しで良いのです。ほんの小さな愛で良いのです。

持久走競技の日、私はそれまでの訓練で走った以上のペースで走りました。その結果、実はゴールの20mほど手前で失速してしまいました。エネルギーを使い果たしてしまったのです。膝が鉛のように重くなり、ドスッ、ドスッというような走り方しか出来なくなってしまいました。もっと上手にペースを配分できていれば、もう一度自己新記録を更新できたかもしれません。それでも、倒れこむようにしてゴールした私を仲間たちが受け止めてくれました。何物にも代えがたい喜びでした。愛を行えない時もあった自分。もしかすると自分では「情けない走り方しかできなかったなぁ」としか思えないかもしれません。それでも、神さまは私たちの一歩を高く評価してくださいます。一歩を諦めなかったことを誉めてくださいます。私たちは自分を誇れないかもしれませんが、神さまは私たちを迎え入れ、神さまが私たちを誇ってくださいます。この愛する子どもは頑張って走りぬいたのだと。この未来への希望が今日も私たちの背中を押すのです。

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