2023年10月29日
創世記 1:1-5、24-31
「創造の御業」
今日から教会暦が変わり、降誕前節が始まります。教会の暦は、伝統的には待降節第1主日から始まり、翌年の待降節が来る前日に終わります。教会暦とは、聖書日課の暦でもあり礼拝の暦でもあります。区切られた1年の中で、その時期によって読まれる御言葉が変わり、私たちは神さまの救いの御業をたどるわけですが、教会暦はその始まりをイエスさまの御降誕を待ちわびることに置いています。これは、イエスさまこそ私たちを救ってくださる方であると信じる私たちにとって、とても相応しい暦であろうと思います。日本基督教団では独自の教会暦を採用しています。この教会暦では4年ごとのサイクルで主日に読まれる聖書の箇所が変わるのですが、今日からはその4番目の年であるD年が始まります。特にD年は神さまの創造の御業から始まり、神さまの選び、神さまの約束をたどって、神さまが私たちのために用意してくださった救いの根底を見出し、確かめます。
聖書は、神さまこそが世界を作られた方であると信じるとの宣言から神さまと私たちとの関係が始まっていると述べています。これは使徒信条の最初において「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」と告白されている私たちの信仰でもあります。この告白をする時、私たちは地上にある全てのものは神さまの御言葉によって形作られていることを思い起こしますが、同時に神さまが全ての被造物を「良し」とされ、与えてくださった祝福を思い起こします。私たちの信仰の根底には、また私たちの信仰が目指すところには、天地の始まりからその終わりに至るまで神さまの祝福があります。
神さまはこの世界を一つずつ、全てが調和するように丁寧に創られ、最後に私たち人間を創られました。私たちが創られるよりも前に創られたものが何かひとつでも欠けたら、私たちはとても生きていけないでしょう。闇でさえ私たちが生きていくためには必要な、世界を構成する大切な要素なのです。全てが美しく整った世界に私たちは生み出されました。では、私たちはこの世界の調和を充分に保てているかと言うと、残念ながらそうとは言えそうにありません。人間は歴史の最初から、調和を壊す者でした。神さまは「全てを治めよ」と被造物の管理を私たちに委ねてくださいましたが、人間は欲望によって神さまの願いを踏みにじってしまいました。
それでもなお、神さまは私たちを祝福してくださいます。私たちにはもはや祝福していただけるだけの理由など無いはずなのに、神さまは私たちを祝福してくださいます。そこにこそ私は神さまの全能を見出します。
全能という言葉は誤解されやすい言葉なのではないかと思います。あたかも何でも出来るかのような印象を与えてしまうからです。だから「全能なのであれば私の願いをかなえてくれるはずだ、かなえられないのであれば全能ではない」などと言うような論法が飛び出てくるわけですが、神さまの全能は私たちの欲望や欲求においては発揮されないと私は考えます。神さまの全能は、私たちと罪との関係においてこそ輝き出でるのです。
私たちがどれほど神さまを裏切ったとしても、どれほど罪深い者であったとしても、神さまは私たちを赦し、悔い改めに導いてくださる。私たちが創られた時に与えられた祝福は決して損なわれない。私たちが罪に堕ちてしまったとしても、祝福がその罪によって損なわれることは無い。人間の側から祝福を神さまに強いるわけにはいかないのと同様に、人間の側から神さまの祝福を無効にはできない。全能とは、神さまの変わらぬ祝福、変わらぬ愛を指す言葉なのです。
「聖書には天地創造の物語が二つある」とよく言われます。確かに創世記第1章から第2章の4節前半までが一つ目であり、第2章4節後半から二つ目が始まっています。実は、それぞれに成立した年代が違います。今日読まれた第1章の創造物語は、ユダヤの人々がバビロニアに囚われている時期に与えられた御言葉です。
この時代、ユダヤの人々はバビロニアで捕囚として暮らすなかで無力さを味わっていました。少し前の頃にはユダヤ王国はとても繁栄していました。経済的にも豊かで、周囲の国々との交流も盛んでした。しかし彼らは豊かさを謳歌する一方で神さまとの繋がりをおろそかにしてしまいました。他の神々を拝むようになってしまいました。その結果、神さまは怒られ、バビロニアを用いて彼らを撃たれました。国を滅ぼされ、遠くに連れ去られて初めて彼らは自分たちが何者であり、どのように生きるべきであったのかを深く考えました。その時に与えられた御言葉が、この創造物語です。
この御言葉を通してユダヤの民は、神さまが自分たちのために全てを整えて用意してくださっていた、それらを大切にすべきであったと気付きます。神さまを信じるべきであったと気付いた時、神さまは彼らを捕囚の苦しみから解き放たれました。罪によってドロドロに乱れ、自分を見失って混沌としていた人々、闇の中に置かれていた人々を神さまはその全能によって赦され、新たに神の民として生きる希望を、光を与えられたのです。
人間は自らの力によって正しさを手に入れられません。人間は神さまとの関係の中においてのみ正しさを与えられるもので、しかもそれは神さまからの一方的な憐れみによって初めて与えられるものであると忘れるわけにはいきません。また、神さまは一瞬たりとも私たちに無関心ではありません。歴史の中で、私たちの時間の中で常に私たちに関わり、祝福し続けてくださいます。その働きかけ、その祝福が最も具体的に示されたのが、御子イエス・キリストの御降誕と御受難です。
イエスさまは暗い夜に光としてお生まれになりました。光はそれ自体が存在することによって私たちに闇の存在を知らせます。光があるからこそ私たちは闇を理解できるのです。その闇は私たちのうちにあるのかもしれません。その闇は私たちの隣人の心にあるかもしれません。そこに闇があると気付いた時、私たちは神さまが光と闇を分け、混沌の中に秩序を建てられたことを思い起こし、闇を照らしてくださいと神さまに祈るのです。
闇に囚われないでください。不思議なことに神さまは闇を滅ぼそうとはなさいませんが、光が闇を照らす時、私たちは闇が光に決して打ち勝てないと知ります。この光こそ福音です。私たちは誰もが心に闇を抱えています。神さまが滅ぼそうとなさらない闇に、私たちが戦いを挑む必要はありません。戦う必要があれば神さま御自身が戦ってくださいます。私たちは闇を闇として理解し、光を求めれば良いのです。
神さまは福音によって私たちを御自身の民としてくださいました。たとえ闇の中に足を踏み入れてしまったとしても、いつも光が私たちを導きます。私たちはただ、この光を目指して歩むのです。