聖霊降臨節第20主日礼拝説教

2023年10月8日

フィレモンへの手紙 1-25

「逃げ出したオネシモ」

誰かに対して持っていた印象が、ちょっとしたきっかけで大きく変わるという経験をすることがあります。そのような出来事は深く記憶に残るものです。特に、悪い印象を持っていた相手の意外な一面を見たためにその人を見直した時には、まるで新たな友人を得たような気持ちになり、とても嬉しいものです。私にとって、フィレモンの手紙はまさにそのような経験をさせてくれた書物でした。

この手紙を読んだのは三十代に入ってからでした。それまでは、数多くあるパウロ書簡の中ではどうしてもローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙等に注目が集まってしまいがちで、フィレモンの手紙を読む機会が私にはありませんでした。そして、それまで私はパウロに対して、どうにも理屈っぽい、頭の固そうな人という感じがして、正直に申し上げてあまり良い印象を持っていませんでした。その彼がオネシモという人物のために、まるで頭を地面にこすり付けるようにして、情に訴えて、彼の犯した過ちを赦してほしいと請うているのが、この手紙です。読もうと思えばほんの数分で読み終えてしまうような短い手紙ですが、この手紙こそパウロの為人を最もありありと私たちに伝えていると思います。

オネシモは奴隷でした。彼は主人であるフィレモンの下からパウロを頼って逃げて来ました。彼は、いわゆる逃亡奴隷です。逃げたところでオネシモの所有権はフィレモンにありますので、彼は見付けられ次第送り返されてしまいます。とらえられた逃亡奴隷は額に焼き印を押されたり首輪をつけられたりしました。そのうえ、一度逃亡した奴隷は主人の好意によって解放されるか、あるいは自分の力で身分を買い取ることができるかして奴隷の身分から解放されたとしても、ローマ市民権を得ることはできません。逃亡とは、リスクばかりが大きく、決して簡単に乗ることができる賭けではなかったのです。だからこそ逃亡を決意した奴隷は通常、地下に潜り、盗賊や野盗の類いになって社会からの関係を絶つのですが、なぜかオネシモは主人の知り合いであるパウロのもとに来てしまいました。これは決して頭のいいやり方だとは思えません。

オネシモという名前は、「役に立つ男」という意味合いの名前なのですが、その名前とは裏腹に11節では、役に立たない男呼ばわりをされています。解釈のしようはいくつかあります。私の頭の中に浮かぶオネシモの人物像は、若干頭の回転がユックリな、でも善良で気の小さな男です。

何故、彼は主人の家から逃げ出してしまったのでしょう。18節を引き合いに出して、フィレモンからお金を盗み取って逃げたのではないかという人もいます。しかし、そんな人がパウロのところにノコノコと助けを求めて来るでしょうか。どうしても耐えきれない何かがあって主人の元を飛び出した…もしかすると、同僚にいじめられたのかもしれません…、逃げ出してみたけれども犯罪者になるという度胸なんてとても無い。できれば主人の元に帰りたい。でも、自分ではどうしていいのか分からない。

行く宛が無くて途方に暮れている時に思い出したのです。主人の家で守られていた礼拝のこと。そこでみんなに話をしていた人のことを。その人こそパウロです。「彼を頼ってみよう。どこに行けば会えるのだろう。以前主人は、どこかの町で投獄されていると話していたけれど…どこかの教会に行けば教えてもらえるかもしれない。」そんな風にしてパウロの居場所を探し、ついに見付け出したのかもしれません。

パウロは自分を頼ってきたオネシモのために、一通の手紙を認めました。それは、フィレモンに、自分がキリスト者であることをまず思い起こさせるようにして書き始められています。オネシモを「わたしの子」と呼び、パウロにとってすでに大切な存在となっていること、そしてオネシモはもう以前の役に立たない、みんなにのろまだなんだといじめられるような奴隷ではなく、フィレモンにもパウロにも有益な、かけがえのない人物となったことを述べています。身分の違いはさておき、オネシモが信仰にあって兄弟となったのです。ここで注目したいのは13節です。ここでパウロは、オネシモは主人フィレモンに仕える1つの手段としてパウロの元に来て、パウロに仕えているという形、オネシモは逃亡したのではなく、主人のためにここに来たという形にできないだろうかと提案しているのです。屁理屈かもしれませんが、この理屈をフィレモンが受け入れたならば、オネシモに逃亡の前科をつけずに済むのです。

パウロはこの提案を、自分の立場を使って強いるのではなく、フィレモンが愛によって、自発的に受け入れ、行うように説いています。それも、8節から9節を見ますと、まずパウロがフィレモンと対等な立場から語りかけ、フィレモンもまたオネシモを同じ立場、対等な兄弟として遇するように勧めているのです。「年老いて」とありますが、これは「長老であるわたしが」というニュアンスでも受け取れます。パウロは私たちに、身分によって人を分け隔てしたりせず、あらゆる人に、愛する兄弟として接するべきであると教えています。しかもそれは義務感からではなく、自分の心からの行いとしてです。

15節では、分かりづらい言い回しがされています。「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは」、つまり、彼は逃げたのではなく、彼は何者かによってあなたから引き離されたのだと言っています。その目的は、オネシモをフィレモンと共に歩む者とするためであったのかもしれないと。オネシモが自分の意志で逃げたのではないとすると、いったい何が彼にそんなことをさせたのか、フィレモンからオネシモを引き離した何者か、これを考えると、パウロはこの出来事も実は神様の導きによって起きたのだと考えていると受け取れます。私たちの人間関係に不信の風を吹き込むような出来事があったとしても、それも神様からの導きなのかもしれないと捉え直そうとしています。パウロはこの出来事に神さまの目線を持ち込もうとしています。

  この手紙で私が特に感動したのは、この手紙の内容というか、パウロが伝えようとしたことよりも、あの理屈っぽいパウロが、すがり付くようにフィレモンの情に訴えているという姿です。たった一人の奴隷のために、考え得るあらゆる論理を駆使して、なんとか救おうとしている姿が私を震わせたのです。パウロは論理だけの人ではなかったのです。その裏に、熱い情が秘められていたのでしょう。だからこそ、周囲の人々もパウロを受け入れ、ついていったのだと思います。

この手紙の内容は主にオネシモの主人であるフィレモンへのメッセージですが、2節を見ればわかるとおり、宛先は教会となっています。オネシモの問題をフィレモンとの関係として限定して捉えるのではなく、教会のこととして受け取ってもらいたいと考えたのでしょう。人と人とが共に生きる時、特に組織を運営するような時には論理性が無ければ、その組織は直ぐに迷子になったり暴走したりします。ですから論理はとても大切です。でもそこに情が無ければ、無味乾燥な関係しか残りません。パウロはこの二つのバランスを保った上で、何とかオネシモを助けようと努力しました。相当に悩んだのではないかと思います。私たちも同じように努力します。何か問題が生じた時、何とかして誰をも取りこぼさずに問題を解決しようと、悩んで知恵を出し合います。そのような時に、その教会の神学が姿を現します。神学は学者だけが研究室かどこかでチクチクやるようなことではなく、教会において生み出されていくものです。その教会をどのような群れとするのかは、教会を構成する私たちに託されています。

私たちはどのような神学を生み出すのでしょう。教会のありようを、どのような教会を私たちが望むべきなのか、パウロはこの手紙を通して、そんなことを教えています。

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