2023年11月12日
創世記 12:1-9
「アブラムの召命」
アブラム、後のアブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人物です。旧約聖書はユダヤ民族の歴史であると同時に、神と人とのかかわりの歴史であるとも言えます。多くの民族が、その人々の由来とも言える歴史を記憶、記録していますが、その書き出しの辺り、民族の最初の物語はほとんど神話や伝説に近い物語から書き始められている場合が往々にしてあります。例えば、古事記や日本書紀には日本の民族の神話が伝えられています。その最初は天地の開闢、国生みと神生み、出雲の神話へと続きますが、これらは歴史的な事実であった言うよりは、何らかのメッセージを託されて編まれた物語と考えるべきでしょう。では聖書の記す、神の民の初めはどうかと言いますと、創造物語もやはり事実の記録というよりは秘められたメッセージの方にこそ大きな意味があると思います。日本の神話も聖書の物語も、読み進めるうちにグッと歴史性が増す部分に行き当たります。日本の神話で言うならば中国や朝鮮の文献にも記されている三韓征伐がそれでしょうし、聖書の場合はアブラハムの旅こそその箇所であろうと思います。アブラハムはカルデアのウルの住人であるテラの子でした。ウルはシュメールの都市国家で、ユーフラテス川の河口、ペルシャ湾の海岸に近い場所にありました。アブラハムがウルを出発してカナンに定住したのは、紀元前1900年頃であろうと考えられています。地図の目盛りを使ってウルからカナンに至るまでの道のりをざっと計算しますと、おおよそ1500kmという長い道のりであったことが分かります。この当時の旅ですから、移動手段は徒歩か家畜に曳かせた荷車などしかありません。荷車を用いたとしても移動速度は徒歩とほとんど変わり無いはずです。そう考えますと、ウルからカナンへの旅は途方もない道のりであると言えます。そんなに険しい旅を、なぜアブラハムは敢えて始めたのでしょうか。
聖書は直接には旅の理由を記していませんが、考古学が参考になると私は考えています。紀元前2200-1900年頃に地球規模の寒冷化が起きたと考えられています。大規模な気候変動が起きたわけです。その結果、ある土地でそれまで実っていた植物が、もっと南の暖かい地方に行かないと実らなくなってしまうというような変化が起きました。ウルのあるメソポタミアの北側に、今のトルコ東部にはフルリ人という人々が住んでいましたが、彼らは自分たちの土地では今まで通りの生活が出来なくなってしまい、温暖な土地を求めてシリアに侵入します。すると当然のことながら、先にシリアに住んでいるアモリ人と衝突が起きます。この衝突によって押し出されたアモリ人がメソポタミアに侵入し、シュメールを滅ぼしバビロニアを建国しました。アブラハムがカナンに向けて旅をした時期は、まさにこの戦乱の時代と重なっています。私はアブラハムとその父テラは、戦火を避けるためにカナンを目指したのではないかと考えています。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアブラハムの宗教と呼ばれています。世界の宗教人口を見ますと、キリスト教徒が32%、イスラム教徒が25%を占めていますから、計算上は人口の半分はアブラハムの宗教を信じていることになります。つまり、地球上の人間の半分からアブラハムは信仰の父として尊敬されているわけです。しかし、実際のアブラハムは必ずしもそれほどの感銘をもって覚えられるような信仰者とは言えません。彼の生涯を見ますと、不信仰による失敗の連続であったと言えます。例えばエジプトにおいては自分の命を守るために妻に対して「誰かに私との関係を問われたら妹だと答えろ」と命じ、その結果ファラオに姦淫の罪を犯させてしまいました。この罪のためファラオとその宮廷には恐ろしい災いが降ってしまいました。また、子を与えるという神さまの約束を今一つ信じ切れず、側女ハガルとの間に男の子をもうけますが、この子どもが後に家庭内の不和の原因となってしまいました。
アブラハムは、このように失敗をする人物であって、決して他の人々と比べて優れていたわけではありません。それでもなお、信仰の父と呼ばれるまでになった理由は、彼が決定的な瞬間に神さまの約束を受け容れたからでしょう。旅立ちの時にアブラハムは神さまを信じました。これは彼が自分の生涯の歩みにはその根底に神さまによる祝福、神さまの愛があると認めたという意味です。時に戸惑って右往左往するかもしれないけれども、神さまが自分を祝福してくださっていると信じて歩むという決断を、アブラハムは出来たのです。神さまはこの決断、この信仰に対して、アブラハムを義と認められました。迷子になってしまうような愚かさも含めて、彼を義とされたのです。
2節で神さまは「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」と祝福の言葉をくださいましたが、これは決してアブラハムがあげるであろう功績に対して約束された祝福ではありません。アブラハムの功績によって人々が祝福されるのであれば、人々はアブラハムを拝むはずです。アブラハムは別に高いところに居たのではありません。むしろ、私たちと同じ地平に立っていたのです。私たちと同じように悩み、同じように、信じ切れない時もあった。私たちと同じように過ちも犯した。けれども、彼は根っこの部分で神さまを信じ続けた。神さまの祝福を信じ続けた。だから神さまはアブラハムを義とされたのです。神さまとアブラハムのこの関係を私たちは何と表現しましょう。これこそ信仰義認です。不完全な私たちであっても、神さまを信じるならば神さまは義としてくださる、受け止めて、受け容れてくださる。そう信じるのです。
園の保護者と立ち話をしていますと、園での生活の様子と家庭での様子が違うという子どもが時々居ることに気付かされます。その子は別に外面が良いとか、恰好を付けているというわけではありません。子どもたちは家の外では頑張っているのです。他の人に迷惑を掛けないように自分を抑えて頑張っているのです。逆の見方をすると、子どもは信じている相手、また信じたいと願っている相手に対しては自分をさらけ出すのです。子どものワガママは信じたいという願いの現れなのです。では子どもは何を信じたいのか。それこそ愛です。
子どもが願うのは自分のワガママが聞き入れられることではありません。あれが欲しい、これが欲しいと駄々をこねる子どもが本当に望んでいるのは、それを買い与えられることではありません。表面に出ている願望がかなえられるかどうかよりも、揺るがぬ姿勢でもって自分と向き合ってくれるかどうかを知りたいのです。自分を大事に思ってくれているかどうかを知りたいのです。ワガママは「信じても良いの?」という問いかけです。ワガママを言っても、何かの失敗をしても揺るがぬ姿勢で自分を受け止めてくれるかどうかを知りたいのです。保護者の姿勢が揺るがぬものであった時、その子は自分に注がれている愛も揺るがないと信じられるはずです。
世の中に不安が満ちている時代、アブラハムは信じる気持ちと信じたいという願いを同時に持って旅をしました。私たちも同じであろうと思います。信じて良いのか問いたくなる時があります。私たちは信じて良いのです。神さまはアブラハムを選び義とされました。酷い言い方になりますが、私たちとたいして変わらないアブラハムでさえ祝福されました。だから私たちも信じて良いのです。アブラハムにも罪はありました。アブラハムにも神さまを信じられない時がありました。それでも神さまはアブラハムを選び、義とされたのです。
私たちもまた選ばれています。私たちは御子イエスの血によって選ばれ、義とされています。アブラハムには申し訳ありませんが、アブラハムの選びよりも優れた選びによって私たちは召し出されています。アブラハムが赦されたよりも大いなる赦しが私たちには与えられています。アブラハムに注がれたよりも大きな愛が私たちには注がれています。御子の十字架は神さまの揺るがぬ姿勢の現れです。神さまは独り子を十字架につけるほどに私たちを大事に思ってくださっているのです。この十字架を仰ぎ見るならば、私たちは神さまを信じられるはずです。
私たちが生きるこの時代も不安に満ちています。私たちも迷い、道を間違えます。しかし、揺るがぬ愛が私たちを導くと信じて私たちは歩むのです。