降誕前節第6主日礼拝説教

2023年11月19日

出エジプト記 2:1-10

「水から引き上げられた子」

イスラエルの民の民族の歴史を俯瞰する時、出エジプトの出来事はバビロン捕囚と並んで自分たちの祖先に神が最も深くかかわられた出来事であって、アイデンティティーの根っこの部分を構成する物語です。では、イスラエル人以外の民族にとっては他人事なのかというと、決してそうではありません。神さまが人間にどのように関わられるのかという視点でこの物語を読む時、一つの民族の姿から、一人の人間の信仰者としての歩みを見出せるのです。つまり、私たちの歩みを、出エジプトの旅から読み取り得るのです。

そもそも、なぜイスラエルの人々はエジプトに居たのでしょうか。飢饉がその理由でした。中東一帯を襲った飢饉により、食べる物を手に入れられなくなったイスラエルは、エジプトを頼りました。イスラエルの人々は、エジプトの地でおおいに栄え、国中に溢れるほどに人数を増しました。

時代が下るとイスラエルの民がエジプトに住むようになった経緯を知らない王がエジプトを治めるようになりました。彼はイスラエルの数に脅威を感じ、これ以上増えないようにすべきだと考えました。そこで、重い労役を課してみたり、助産婦たちに、ヘブライ人の家に生まれた子どものうち、男は殺してしまうようにと命じてみたりしました。ところが、助産婦たちは王の命に背いて、全ての子どもを生かしました。これを受けてファラオは、生まれた男の子を全てナイル川に放り込むようにと命じました。

ここまでが、先ほど読まれた部分の前に起きた出来事ですが、少し注目していただきたい言葉があります。それは、ヘブライ人という言葉です。今日の聖書箇所の中では、モーセが「ヘブライ人の子ども」と呼ばれていますが、これは本来、一つの民族の名前ではありません。これは、「移動する者」「よそ者」というような意味合いの言葉で、定住する人が移動生活を送る人たちを蔑んで呼ぶ時に使われた言葉です。

私たちの中で、移動生活を送っている人は多くはありません。そういう意味では、私たちはヘブライではありませんが、私たち信仰者の生き方について「いわば旅人であり、仮住まいの身である」と記されているペトロの手紙の記述からも、この「ヘブライ」という言葉は私たちにとっても大切な言葉であると言えるでしょう。

さて、ここにレビ人の夫婦がいました。夫の名前はアムラム、妻の名前はヨケベドと言います。この名前は少し後の部分、6章に記されています系図から読み取れますが、今日はまだ名前は紹介されていません。

レビ人の妻は身籠って男の子を産みました。私は出産をした経験がありませんので、こうだと申し上げられないのですが、母親にとって我が子は特別な存在でしょう。およそ10ヶ月の間、お腹の中で育てるという経験は、他には代えがたい絆となるでしょうし、出産の痛みを乗り越えての対面は、男には想像もつかないほどの大きな喜びであろうと思います。

彼女にとっても、やはり赤ん坊は特別の存在でした。幼児の死亡率が高かった当時にあっては、最初の3か月は新生児にとって生きのびられるかどうか分からない時期でした。生きられるかどうかすら分からない子どもを敢えて死なせることなど、彼女にはできなかったのです。出来得る限り活かしたいと思ったのです。当たり前です。そこで彼女は赤ん坊をこっそり育てようと決心しました。

ただ、子どもが大きくなると、隠しきれなくなってきました。それに、3か月を生きたことで、この後も生きる希望が出て来たのです。彼女はこの希望を繋ぎたいと願うようになりました。そこで一計を案じます。パピルスで編んだ籠に、アスファルトとピッチ、つまり油性の樹脂を塗り、補強すると同時に水が入らないようにしました。赤ん坊が入る大きさの小舟を作ったわけです。この小舟に赤ん坊を乗せて、ナイル川の水草の茂みに起きました。実にうまいやり方だと思います。流れの強い場所に入れてしまえば、小舟はたちまち流れに飲まれて沈んでしまったでしょうし、うまく浮かんだとしても、どこかに行ってしまったりするでしょう。水草の茂みであれば、水草に引っ掛かって小舟はいつまでもそこに留まります。「ナイル川に子どもを入れろ」というのがファラオの命令ですから、命令には従ったことになります。

茂みの中に置かれた小舟を姉が見守ります。この小舟をファラオの娘が見付けたのは、皮肉でもありましたが、幸運でした。見付けた小舟の覆いを開けてみると、赤ん坊が泣いていました。彼女は自分の父親が出した命令を知っていますが、この子はまるで「生きたい」と叫ぶかのように泣いています。この泣き声に、彼女は哀れさを覚えました。

赤ん坊の姉は、大変頭の良い、機転の利く人だったと思います。今風に言うならば、空気の読める人物です。ファラオの娘の様子を見て取ると、絶妙のタイミングで「乳母を呼びましょうか」と切り出しました。ここでもし「乳母など要らない。水に戻せ。」と言われてしまったら、計画は全ておじゃんになってしまいますが、姉はファラオの娘の心の動きを的確に捉えました。ファラオの娘の「乳母を呼べ。」という言葉によって、これから先も生きられる可能性が見えてきました。姉は赤ん坊の母親を呼んできました。さっきまで乳を与えていたのですから、母乳は当然出ます。と言うよりも、まさに実の親子なのですから、この子どもを育てる役割にはこれ以上ピッタリの人物は居ないでしょう。ファラオの娘は母親に命じます。「わたしに代わって乳を飲ませておやり。」この「わたしに代わって」という言葉ですが、訳によっては「わたしのために」と訳されている物も少なくありません。この言葉の前に、新共同訳聖書では訳出されていない言葉が一つあります。赤ん坊の姉は乳母を呼ぶに際して「あなたのために」と言っています。「あなたのために、この子に乳を飲ませる乳母を、ヘブライ人の中から呼んでまいりましょうか」と言ったのです。姉の「あなたのために」という言葉に呼応して王女は「わたしのために」と言ったのです。この命令により、赤ん坊はファラオの王女の庇護を受ける者となりました。これによって生命の危機は完全に遠ざかったと考えて良いでしょう。

ただ、今回、一つ疑問を持ちました。それは、このファラオの命令は厳密に守られていたのだろうかという疑問です。なぜそのような疑問が浮かぶのか。その理由はアロンの存在です。

ここからは雑談として聞いてください。モーセにはアロンという兄が居ました。先ほど紹介した6章の系図からは実の兄であると分かります。ファラオの命令は、新しく生まれた男の子全てに及ぶ内容でしたから、男兄弟は存在しえないはずなのです。しかし、アロンという兄が居ます。この理由を説明してくれる注解者を私は知りません。

例えば命令が出されるよりも前に生まれた等々、色々な解釈による説明が可能だとは思いますが、どんな解釈をしたところで、聖書からは根拠を見出し得ません。可能性があるとすれば、考古学的な考察によってなのでしょうが、「これ」という答えは見付けられないのではないかと思います。

これは私の想像でしかないのですが、このファラオの命令は、それほど厳密には守られていなかったのではないか、抜け道があったのではないかと考えます。そして、その抜け道こそ、小舟に乗せて浮かべるというやり方だったのではないでしょうか。ファラオの命令は「ナイル川にほうり込め」です。溺れ死にさせろとまでは書いていません。だからこの母親は、赤子を小舟に乗せてナイルに入れ、拾い上げて再び育てたのではないでしょうか。いったんナイル川に入れているわけですから、ファラオの命令は果たしています。これは詭弁そのものですし、お役所的な論理ではありますが、それでも論理は成り立ちます。水に浮かべて、そこから引き上げる。この手続きを行いさえすれば、目こぼしをもらえたのではないかと想像するのです。雑談はここまでにして、王女の所に帰りましょう。

この人の父親のせいで、この赤ん坊は水に浮かばなければならなかったのですから、王女の庇護を受ける者になったというこの結果は大変な皮肉だとも言えます。しかし王族という有力な立場にある人物の庇護を受ける事ができるという意味では、やはり大きな幸運でした。ファラオの抑圧政策によって、ヘブライ人たちの生活は困窮していましたが、王女によって赤ん坊の養育に必要な費用を賄えるようになったからです。そして大きくなったこの子どもがファラオの娘のもとに連れて来られた時、彼女は改めてこの子どもを養子として迎え入れ、モーセと名付けました。それは「水から引き上げる」という意味の言葉と語呂を合わせた名前でした。

水から引き上げられるというこのイメージは、この後もイスラエルの民族の物語に現れます。紅海を渡る、あの箇所です。この前にも存在しています。ノアの箱舟の出来事です。水から引き上げられ、救われて生きるというイメージが、イスラエルの信仰にとっては神の救いと、それによって歩む者の生き方を表しているのではないかと私は考えています。そして、そのイメージは洗礼へと繋がっています。

モーセはいったんナイルに浮かべられて、引き出されました。先ほどの雑談の論理で言いますと、いったん手続き上は溺れて死んだことになっているのです。そして、引き上げられて新たな命を得、召し出されて神の御心によりイスラエルの人々をカナンの地、神が約束された土地に導く者となりました。

イスラエルの人々は、ファラオの下で苦しみを受けていました。重い労役に縛り付けられて、苦しみながら生きていました。この苦しみの声を聞いた神は、イスラエルを救おうと決意し、モーセによってエジプトの地から導き出しました。そして、紅海の底を歩み、水をくぐらせることによって、エジプトからの完全な解放を得させられました。この解放はゴールではありませんでした。むしろ、ここから本格的な旅が始まったのです。

この姿を私たち一人ひとりの生きる姿に重ね合わせられないでしょうか。この世に在って、私たちを縛り付ける物があります。私たちを息苦しくする物があります。それが何なのか、それは人によって違うでしょう。この息苦しさからの解放を求めて、私たちは主の御許に集うのです。集っているのです。この私たちに主は語り掛けます。

「あなたの声を聞いた。これからは一緒に歩こう。」

そして更に言われます。

「水をくぐりなさい。これによって新たな命を得るのだ。」

水をくぐる経験、つまり洗礼を通して、私たちは改めて神と結ばれ、新たな道を歩み始めるのです。この道は決して平らではありません。歩きやすい道ではないのです。モーセも悩みながら、苦しみながら歩みました。イスラエルの民も、不安に苛まれながら歩きました。この道を歩む中で、少しづつ作り変えられて、神の約束とその成就を経験していったのです。私たちも同じです。モーセが人生の始めの時期にナイルの水をくぐり、引き上げられたように、イスラエルの民が旅の始めに紅海の水をくぐり、引き上げられたように、私たちも洗礼によって水をくぐり、水から引き上げられて信仰者としての道を歩み始めるのです。

ルターは小教理問答の中で洗礼の水について「どうして水が私たちを救うのですか。」と、問いを立て、それに対する答えを通して私たちに教えています。「もちろん、水がそれを行うのではなく、水と結びつき水と共にある神様の御言葉、および水の中にあるこの神様の御言葉を信頼する信仰とがそれを行うのです。なぜなら、神様の御言葉なしには、水はたんなる水に過ぎず、洗礼ではないからです。しかし、神様の御言葉が共にあるとき、それは洗礼です。すなわち、それは恵みに満ちた命の水であり、「聖霊の中で新しく生まれる洗い」なのです。ちょうど聖パウロがテトスへの手紙(3章5~8節)で、『聖霊様によって再び生まれさせ新たにする洗いを通して、神様は私たちを救われました。神様は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、聖霊様を私たちの上に豊かに注ぎかけてくださいました。それは、私たちが、この恵みによって、希望に従い、永遠の命を受け継ぐのにふさわしい者とされるためでした。これは、確かに本当のことです』。と言っているとおりです。」

私たちが水のうちに神さまの御言葉を求めて祈る時、ただの水にすぎないものと共に御言葉と聖霊があり、人を新しい命、永遠の命へと導くのです。

先週の木曜日、1人の女性が洗礼を受け、私たちには新たな家族が与えられました。彼女は水の中から引き上げられ、新しい命のうちに歩み始めました。これまでの彼女の歩みのあらゆる瞬間に神さまの御力が働いて、彼女を洗礼へと導いたのです。神さまの救いの御計画の偉大さを目の当たりにしたその瞬間に、立ち会った私は自分が何を為すべきかを知りました。私は神さまの御業を証言するために生かされているのです。私だけではなく、全てのキリスト者が、自分の目で見た、耳で聴いた神さまの御業を宣べ伝えるために命を与えられているのです。

神さまは私たちがどこに居ようとも、どこを彷徨い歩こうとも、一緒に居てくださいます。エジプトの軍勢に追われる時も、飢えと渇きに苛まれる時も、闇の中を歩く時も、私たちと共にあり、私たちを導いて下さいます。私たちには決して消えない希望が与えられているのです。

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