降誕前第8主日礼拝説教

2023年11月5日

創世記 3:1-15

「蛇のささやき」

今日読まれました御言葉は、最初の人アダムとエバが神さまの御前で負い目を追うようになって行く様子を描いていますが、これこそ神さまと人との関係において人が拭い難く持っている罪の姿であろうと思います。

神さまは世界を創造され、最後に人を創られました。土をこねて体を作り、鼻から命の息を吹き入れられると人は生きる者となりました。神さまは人をエデンの園に住まわせ、ここを耕し、守るように、つまりエデンの土地から命の糧を得、この園を管理するように命じられました。この時、一つの戒めを与えられました。園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。そして人に、共に生きる者として女を造られました。二人は裸でしたが、恥ずかしがりはしませんでした。彼らはお互いに対しても、また神さまに対しても裸を見せて恥じることはありませんでした。

女が1人で居る時に蛇が声を掛けます。「園のどの木からも食べてはいけないと神さまは仰ったのか。」この言葉はトリックです。神さまはそんな風には仰いませんでした。ですが、この言葉は女の心に一つのトゲを打ち込みました。そのトゲは「神さまの御言葉を間違って理解してはいけない」という強い気持ち、強過ぎる気持ちを生じさせます。そのため、蛇への返答は実際に神さまが仰った内容とは少し違ってしまっていました。「園の木の果実を食べてもよい。」これはその通りです。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。」これも御言葉の通り。しかし「触れてもいけない」と神さまは仰ったでしょうか。神さまは「食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」とは仰いましたが、触れるなとまでは仰いませんでした。女は神さまの御言葉を拡大解釈してしまったのです。

蛇は言います。「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存知なのだ。」この言葉は決定打となって女に欲望を後押ししました。後に女は「蛇が私をだましたので」と神さまに言い訳をしますが、蛇は何一つとして嘘を言っていません。蛇は女をだましてはいません。蛇は何も知らない愚か者を装って女に近付き、まず女に警戒心を生じさせました。それは蛇に対する警戒心ではなく、神さまの御心からの逸脱への警戒心です。

女は「キチンとしなければいけない、神さまとの約束を破ってはいけない」と考えるあまり、神さまの御言葉を拡大解釈し、より厳しい戒めを自ら作り出し、更にはそれを神さまの御言葉であるかのように勘違いしてしまいました。自分が言った言葉で自分が勘違いしてしまったのです。蛇は騙してはいません。女の心をチョッピリ揺さぶって頑なにさせ、不安定にした上で魅力的な言葉を吹き込んだだけです。

女の目に映る実の様子が描写されていますが、これこそ自ら進んで騙されようとしている女の心の情景そのものでしょう。そしてついに女は木からとって食べ、そばに居た男にも渡しました。男は実を手にすると、女と同様に食べてしまいました。

女も男も、自らの意志で食べています。別に蛇は女に無理矢理食べさせたわけではありません。女は男に強いて食べさせたわけではありません。それぞれが、自分の自由意志で食べるという選択をしたのです。

確かにその実は美味しかったでしょう。確かにその実は彼らに知識を与えたでしょう。善悪の知識の実を食べた途端に、彼らは自分の姿を客観視できるようになりました。彼らの姿は、とても神さまの御目には耐えられないものとして彼らの目に映りました。それどころかお互いの目に触れることすら恥ずかしく思えたので、二人はすぐに、そばにあったイチジクの葉で裸を隠すものを作りました。ここから先、二人は自分の罪深い姿を隠すためにもがき続けます。

これが一日の間のいつ頃の出来事であったのかは分かりません。風の吹くころ、つまり夕暮れ近くなって神さまの足音が聞こえました。「ついに避けられない時が来てしまった」と、二人は恐ろしくなりました。この時が来るまでの時間も恐ろしかったでしょうが、今は何よりも神さまが恐ろしくてなりません。二人は思わず木の間に隠れてしまいます。

神さまは異変に気付かれます。いつもであれば無邪気に寄って来たはずの二人が全く姿を見せないのです。私は、この時神さまは既に全てを知っておられたのではないかと考えています。全てを御存知の上で神さまは二人に声を掛けられます。

「どこに居るのか。」

この問いの裏には「何故私の前に立たないのか。何故私を避けるのか。」という、もう一つの問いがあると考えます。男は答えます。「裸なので隠れています。ありのままの姿では御前に立てないのです。」

神さまは男の「裸であるから隠れている」という言葉を問題となさいました。なぜ自分のありのままの姿を知っているのか。しかも何故それをもって私から隠れる理由としているのか。戒めを破って知識の木からとって食べたという背き、そして神さまから離れて隠れているという背きを問題となさいました。

御怒りに気付いた男は自分から神さまの御怒りを少しでも逸らそうと責任を女に擦り付けます。それだけではありません。女について「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった」という言葉を付け加えて暗に「神さま、あなたにも責任があるのですよ」と言っています。神さまにまで責任を転嫁しています。

神さまは女を振り返って問われます。

「何ということをしたのか。」

女も男と同様に恐ろしくなり、蛇に騙されたと言って責任を転嫁します。

この二人は自分の姿を客観視できるようになっていながら、自分の罪認めようとしません。もしも我が子がこのようであったならば、親はきっと子に対して怒りを覚えるか失望するかのどちらかではないでしょうか。しかし神さまは怒られません。男は神さまにまで罪を擦り付けようとしましたが、その男に対しても神さまは怒られませんでした。女に対しても怒りの言葉を発せられることはありませんでした。ただ神さまはこれから後に起こる厳しい現実を伝えられます。女には苦痛を伴う出産が、男には労働の労苦が与えられました。そして、人生の最後を明確に示されます。

「お前は顔に汗を流してパンを得る。土にかえるときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

二人は楽園から追放されてしまいました。神さまは二人に対して失望なさったから追放なさったのでしょうか。もう顔など見たくないから追い出されたのでしょうか。私はそうではないと考えます。その証拠に神さまは皮の衣を二人に与えて着せられました。もし神さまが失望されていたならば、何も与えず、何も持たせずに二人を追放されるのではないでしょうか。そして、もし神さまが人間の罪深さを怒られ、無理矢理にでもこれを正さねばならないと考えられたならば、裸で放り出したはずです。神さまの御前にあっては裸で立つのが本来の姿なのですから。私はこの皮の衣に神さまからのメッセージを見出します。

「あなたは自分の罪深い姿を見せられないと言って私から隠れた。裸では私の前に立てないと言うのであれば、これを着なさい。今から始まる道のりには苦しい出来事もあるだろう。それでも、これを着て、いつか私の許に帰って来なさい。」

皮の衣こそ、アダムとエバに与えられた希望なのです。人は必ず立ち帰れると神さまが信じて居られる。神さまが待ってくださっているという証拠なのです。そしてこの衣は私たちにも与えられています。いえ、私たちにはもっと良い着物が与えられています。パウロはガラテヤの人々に宛てて、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と書き送りました。私たちにはキリストという衣が与えられているのです。

確かに私たちはいつか塵に返ります。私たちの体は土に帰ります。しかし、私たちが神さまの御許に帰る日、神さまは私たちにキリストという衣を着せてくださるのです。今、私たちは既に天に帰った愛する家族と共に礼拝に与っています。神さまはこれらの家族たちにも御自らキリストという衣を着せ、天に迎え入れてくださったのです。そして私たちはこれから、この家族と共に主の食卓を囲みます。いつか、このようにして天上の食卓を囲むという希望が私たちには与えられているのです。

自分自身の罪深さに、顔から火が出そうになる時があります。自分の罪に恐ろしくなる時があります。それでもなお、そんな私たちをも、そんな私たちだからこそ、神さまは待っていてくださる、迎え入れてくださるのです。私たちは自分の罪深さに絶望ではなく、希望を見つつ歩むのです。

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