待降節第2主日礼拝説教

2023年12月10日

列王記上 22:6-17

「真実の言葉」

間も無く2023年も終わろうとしています。今年一年間を振り返りますと、やはり色々あった、世界は常に揺れているのだと感じさせられます。そのような社会の中にあって、私たちはどのように世界と向き合うべきなのか、聖書は教えてくれます。

今日読まれた聖書の御言葉には、4人の人々が登場します。これらの人々は二つの方法で二組に分類出来ます。一つは、彼らの身分です。二人の王と二人の預言者という分け方です。もう一つの分け方は、極めて大雑把に言いますと、良い者と良くない者という分け方です。それぞれの人物像について少し見てみたいと思います。

アハブは旧約聖書に現れる王たちの中でも、好ましくない王の代表格と言えるでしょう。特に、ナボトのブドウ畑のエピソードが、その印象を決定的なものにしていると言えます。

宮殿の傍にあった豊かなブドウ畑を欲したアハブは、その持ち主であるナボトに譲ってほしいと話を持ち掛けますが、ナボトは「これは子々孫々まで受け継ぐべき土地として大切にしている土地だから」と、譲渡を拒みました。そこでアハブは妻イゼベルの勧めた策略により、ナボトを陥れて殺害し、この畑を手に入れてしまったのです。

このように、アハブは大変強欲で、欲しいと思った物を手に入れるためには手段を選ばない人物であったと聖書には記されています。ただ、このエピソードは、この時代の気分を表す物でもあると思います。

元々は遊牧民であったヘブライの人々は、定住生活を始めるとそれに適した生活の様式と、それに必要な知識を求めました。特に、農耕に必要な知識を彼らは持っていませんでしたので、それを得るために、他の民族との交流を盛んにおこなうようになりました。

農耕に必要な知識は、どの民族においても宗教性を帯びて受け継がれています。豊かな実りを与えてくれる者として、農耕の神が祀られます。そして、例えば節目ふしめで行われる年間行事として、農耕に必要な知識は蓄積され、保たれます。

カナン地方には。農耕によって豊かな生活をしている先住民が居ました。その豊かさを申命記から読み取れます。申命記の1章にはアモリ人の体の大きさ、体格に関する記述が見られます。おおよそ、栄養状態の良い人々は大きな体を持つものですが、この記述から農耕民族であるアモリ人が当時のヘブライ人よりも豊かな生活を送っていたのだろうと予測出来ます。

農耕民族が持つ豊かさを求めたヘブライの人々は、彼らと交流を始めました。しかし、この時同時に、農耕の神バアルへの信仰をも受け入れてしまったのです。つまり、豊かさに目がくらんで、自分たちをエジプトの地から救い出し、これまで守ってくれていた神さまをないがしろにし始めてしまったのです。ナボトに対するアハブの行いは、この時代の気分を象徴する行為であったと言えるでしょう。

当時、ヘブライの民族は北イスラエル王国と南ユダ王国の二つの国に分かれていました。ソロモン王の死後、後を継いだレハブアムに反発した支族たちは、分離独立し、南部にユダ王国を建国したのです。アハブは北イスラエル王国の王でした。

この二つの国は事あるごとに対立していたのですが、アハブの時代には北イスラエル王国が優位となり、南ユダ王国はどちらかというと従属的な立場に置かれていました。南ユダ王国の王ヨシャファトがイスラエルを訪れているという関係性からも、それは分かります。政略結婚により、表面的には親族という関係ではありましたが、北イスラエル王国の方が「呼び付ける」側だったわけです。

この時、アハブはヨシャファトの前で部下たちを詰ります。ラモト・ギレアドの町がアラム人の支配下に置かれ、この町を取り返せずにいる現状について叱責したのです。ラモト・ギレアドはかつて主が制定を命じた逃れの町としてヨシュアが聖別した町です。イスラエルにとっては大切な町なのです。そこでヨシャファトに、共にこの町を取り戻すために軍を起こそうと誘ったのです。

この誘いは、南北の力関係を考えると実際には強制力を持つと考えて良いでしょう。これに対するヨシャファトは、「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」と、肯定的な返事をしていますが、その後すぐに「まず主の言葉を求めてください」と言い添えています。

ヨシャファトは神に忠実な王として描かれています。ですので、「まず神の言葉を求める」という彼の姿勢は、神を畏れる者に相応しいものではありますが、恐らくこの時のヨシャファトの言葉は、この誘いを回避したいという思いから出たものと考えられます。

出来れば断りたい。かと言って、ハッキリと断ると角が立つ。そこで、第一声としては、「それは良い考えですね。是非一緒にやりましょう」と答えながらも、「ただ神さまはどう考えられるのでしょうね。」と言って再考を促しているわけです。中小企業の社長のような、あるいは中間管理職のような苦労をヨシャファトはしていたわけです。

この言葉を受けてアハブは400人の預言者を集めて、彼らに今回の出兵についての是非と尋ねました。

預言者とは、神の言葉を取り次ぐ人々の事ですから、常に正しいことを言う人々という印象を持ちますが、この人たちについては、そうは言えそうにありません。この人たちは宮廷預言者と呼ばれる人々で、君主の傍に侍って、君主の望み、主君が何を喜ぶかを察して、それを補強するような阿諛追従を言って飯を食っているような人々でした。

だから彼らはここでも、「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と、アハブが望んでいる答えを出しました。

ヨシャファトの「ここには他に預言者は居ないのか」という言葉からは、君主に阿る連中しか居ないのを見て、うんざりしている表情が容易に想像できます。

ヨシャファトの言葉を聞いてアハブは、もう一人ミカヤという預言者が居ると明かしますが、この預言者に対する悪い感情をあからさまに述べます。他の預言者たちのように、耳に甘い言葉を言ってくれないから嫌いなのだと。

預言者とは、神の意志を伝える者です。この人たちの存在が最も意味を持つのは、誰かの誤りを正す時であると言えるでしょう。誰かが神さまが御心に適う何かを行っている時には、その人は放っておかれても良いのですが、御心に適わない振舞をし始めたならば、これは止められなければなりません。ですから、必然的に預言者の言葉には苦言が多くなるのです。その意味で、ミカヤは本当の意味での預言者である、ここに登場する預言者の中では唯一、本当の預言者であると言えます。

ヨシャファトはアハブを諫めました。「神が選んだ人なのですから、悪く言うのはやめて、とにかく一度話を聞きましょうよ」と。アハブはミカヤを召し出すために役人を遣わしました。ミカヤは普段から王宮に侍っているというわけではないので呼びに行かなければならないのだと分かります。400人の宮廷預言者と違って、王や王族たちと癒着しているわけではないのです。

二人の王は北イスラエル王国の首都サマリアの町にある、麦打ち場に椅子を置いて、預言者が来るのを待ちました。麦打ち場は脱穀をするための広場のような場所ですから、多くの預言者を集めるのに適した場所でした。10節からの記述は、6節から始まる文章、アハブが預言者たちに諮問する情景を詳しく描き直したもので、二度目の諮問が行われたというわけではありません。

アハブの問いに答えた預言者の代表的な人物として、ケナアナの子ツィドキヤが紹介されています。ツィドキヤは鉄の角を作って、これでアラムを突き刺せと言います。これは言わばデモンストレーションです。申命記33章にあるモーセの祝福の言葉「彼は威光に満ちた雄牛の初子、彼の角は野牛の角。彼は諸国の民を角で突き倒し、地の果てにまで進み行く。」を視覚的に表し、アハブを喜ばせようとしたのでしょう。

この間にミカヤを呼びに行った者は、ミカヤに言い含めます。

「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」

前もって言うべき内容を指定されているのでは、預言でも何でもありません。当然の如くミカヤは「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と、使いの者の勧めを一蹴します。

ところがアハブの前でミカヤは「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と、他の預言者たちと同じような内容を話し始めました。ミカヤは立場を変えたのでしょうか。あるいは、神さまは本当にこの旅の出兵を良しとしているのでしょうか。

ミカヤの言葉が本心からの言葉ではなかったことは、アハブの怒りから分かります。アハブの怒りの言葉は理解しづらい言葉ですが、これは「お前は今、それを本心から言っているのではないだろう。本当に思っていることを言え」という意味合いです。きっとミカヤは口では王の喜ぶような言葉を並べていますが、その態度はまるで正反対のことを示していたのでしょう。おそらくミカヤは、他の預言者たちの答えを皮肉って、相当に馬鹿にして真似たのでしょう。だから王は、ミカヤの本来の答えを言わせようとしたのです。

これに対するミカヤの答えは「やれ」とか「やめておけ」というような二者択一の答えではありませんでした。

「私は全イスラエルが、羊飼いのいない羊の群れのように、山々に散らされているのを見ました。主は言われます。『彼らには主人がいない。それぞれ自分の家に無事に帰らせなさい。』」

ミカヤの答えは、出兵の先に見える光景、イスラエルの人々が路頭に迷っている姿でした。勝つか負けるかという次元でミカヤは戦争を捉えていません。勝とうが負けようが、人々は幸せにはなれないと言っているのです。国の幸せは勝敗の向こうには無いのだ、戦争をして幸せになれるわけは無いのだと言っているのです。そして言外に、戦争を止めよと言っているのです。

これは明らかにアハブの求めた答えではありませんでした。そして、今日は読まれませんでしたが、この先の文章ではミカヤはアハブの敗北を預言し、預言者たちを徹底的に詰ります。対立の末にミカヤは牢獄に繋がれてしまいますが、この戦争の結果はイスラエルの敗北でした。ミカヤが預言した通り、アハブは戦死してしまいました。こうしてミカヤの正しさは証明されました。ミカヤがその後どうなったのかは分かりません。しかし、彼は最も大切な瞬間に、最も大切なことを言うために王宮に召し出され、それを行ったのです。

人は甘い言葉を好み勝ちです。聞いていて心地良いからです。しかし、時に正しい言葉は耳に苦いものです。アハブは自分したいことをしたかったのですが、ミカヤの言葉はとても苦かった。人は自分の欲求や利益を優先させ勝ちです。しかし、目先の利益だけでは計れないものが存在しています。もしもこの戦争でアハブが勝利していたとしたならば、彼自身もイスラエル王国も利益を得た事でしょう。それでも、利益と幸福とは違う次元のものなのです。その事を時に厳しく、時に鋭く教えるのが、預言なのです。この預言の先、究極的な先にあるのは何でしょうか。それは、全ての預言の成就という形で私たちの前に示されています。それこそ、イエスさまによってもたらされたもの、福音です。

福音は決して争いません。福音は決して奪いません。福音は誰かを傷付けません。誰かを踏み潰して得られるものは福音的ではないのです。

私たちはどうすれば良いのでしょうか。その答えをミカヤは主の言葉として伝えています。

19節には「主の言葉を良く聞きなさい。」とあります。

現代は言葉が溢れる時代であると言えます。しかし、その言葉の内のどれが真実で、どれが嘘だと、どのように判断できるでしょう。耳に甘い言葉だけを選んでいたのでは、道を踏み間違えてしまいます。もっともらしく聞こえる言葉であっても、裏に誤りがあるかもしれません。そんな時代であるからこそ、真実の言葉をもって語り掛ける福音に足場を置いて、世に満ちる声を聞き分けるのです。

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