2023年12月24日
ゼカリヤ書 2:14-17
「義の太陽」
秦野教会ではまずチャイムの音が鳴って礼拝の開始を知らせます。それからオルガンによる前奏が続きますが、前奏を持って礼拝が開始される合図であると考える教会もあります。そのような教会では前奏が聞こえ始めるとロビーに居た人たちは礼拝堂に入って席に座り、カバンから聖書や賛美歌をカバンから出して礼拝の準備をしますが、秦野教会では前奏の前に敢えてチャイムを鳴らしているところを見ますと、前奏に合図以上の意味を持たせているのだろうと想像されます。つまり、礼拝堂に入る、道具を用意するなどの物理的な準備はチャイムの間に済ませ、前奏が鳴っている間は沈黙し、心を静めて内面的な準備をするのが相応しいと考えているのです。私は、この沈黙の時間が好きです。主日礼拝では、私は短い時間しか沈黙できませんが、例えば園の朝の礼拝などではしっかりと沈黙の時間を取りたいと思い、実際にそうしています。この沈黙を、カーテンのようなものだと説明する場合もあります。この沈黙を境に特別な時間、神さまと対話するために特別に分けられた時間が始まるのです。そして、礼拝が終わると、やはり同じように沈黙し、特別な時間から普段の生活の時間へと旅立つのです。私たちの生活は、みんなで神さまの御前に集まる特別な時間と、そこから送り出され普段の生活をする時間との行き来の連続であるとも言えます。
バビロンにおける捕囚の生活から解放されたユダヤの人々でしたが、二つの理由から中々みんなで揃って神さまの御前に集まるというわけにはいきませんでした。一つ目の理由は、ユダヤへの帰還を拒否する人々の存在でした。囚われていたバビロンからの帰還が許されたユダヤの民は、こぞって故郷に帰ったかというと、そうではありませんでした。中にはバビロンに残りたがる人々も居たのです。砂漠を超えて、敢えて苦しく長い旅をして帰ろうという気持ちになれない人も少なくなかったのです。それでも、4万2千人の人々がエルサレムに帰り、神殿の再建に手を着け始めますが、この再建工事を快く思わない周辺の民族が、あれやこれやと難癖をつけてやめさせようとします。ついには実力を持って妨害し始めたので、帰還したユダヤの民は散々に悩まされました。それが二つ目の理由です。
そんなユダヤの人々に神さまは預言者を遣わされました。それがゼカリヤです。神さまはゼカリヤに八つの幻をお見せになりました。今日はその第三の幻が読まれました。
一人の人が現れ、エルサレムの都の幅と長さを調べようとしています。その人が去ってしばらくすると、神の御使いが現れて言います。
「エルサレムは多くの人と家畜が住む城壁の無い町となる。私自身がそれを取り囲む火の城壁となる。」
御使いは、エルサレムの将来の姿を語りました。エルサレムは誰もが自由に行き来できる町となるだろう。その時、エルサレムには城壁は要らなくなる。なぜならば神さま御自身が町を囲んで守られるからだ。誰もが自由で、安心して生きられる町が実現するのです。
その一方でバビロンについては厳しい言葉が臨みました。具体的に何が起きるのかについては宣べられてはいませんが、バビロンに住むユダヤの民に対して、そこから逃げて離れるように強く勧められています。神さまはバビロンの都に残っている人々のことを心配して居られます。「みんなと一緒に集まって、ひとつになって礼拝しようよ」と呼び掛けて居られるのです。
これは、ユダヤの民だけに対して掛けられた御言葉ではありませんでした。ひとつとされるのはユダヤの民だけではないのです。
「その日、多くの国々は主に帰依して」とあります。「帰依」と言うと仏教的な響きをもって私たちは聴いてしまいますが、「帰依」と訳されている言葉は本来「連なる、ひとつに結び合わされる」という意味の言葉です。異邦人もユダヤの人々と結び合わされて、神の民として、神さまに大切な人として愛され、一緒に喜ぶ日が来るのだと、神さまは仰るのです。
この後、神さまは人々に沈黙するように御命じになります。その理由は、神さまが天の宮から立ち上がり、人々の間に住まわれるからです。
ここまでがゼカリヤの見た第三の幻です。ゼカリヤが見たこのビジョンは幻に過ぎなかったのでしょうか。私はこの幻は、幾度となく実現したと考えています。少なくとも私は二つの例を提示できます。一つ目は御子の御降誕です。本来であれば天の宮に居まして栄光をお受けになっておられるべき神の御子が、この地上で肉を受け、人々の間に生きられたあの出来事は、ゼカリヤを通して語られたビジョンの実現でした。二つ目は、争いの中に起きた沈黙と、それに続く喜びの出来事です。
1914年7月、世界は戦争の嵐の中に放り出されてしまいました。第1次世界大戦です。この戦争が始まった当初、世界はこの戦争について楽観視していました。ほんの数週間で決着がつく、クリスマスには帰国できると考えて、多くの若者が勇んで戦場へと向かいました。しかし戦線は膠着状態に入り、長期化、泥沼化の様相を呈してきました。若者たちはついに戦場でクリスマスを迎えたのでした。
激しい戦闘が繰り返されていた西部戦線の一部であるフランス北部で、あるイギリス軍の将校がクリスマス・イヴの夜に何かが光っているのに気付きます。それはドイツ軍の塹壕の中で光っています。ゆっくりと頭を上げてみると、光っていたのは綺麗に飾られたクリスマス・ツリーでした。そして、風にのってドイツ語の歌が聞こえます。メロディーは「きよしこの夜」です。これを聞いたイギリス軍の兵士たちも英語で「きよしこの夜」を歌いました。夜が明けると、両軍の兵士たちが塹壕を出て、自然に停戦状態が生まれました。
両軍の兵士たちはこの予期せぬクリスマスの休戦の間、互いに戦死者の遺体を回収し、合同の埋葬式を行ったほか、酒やタバコ、チョコレートなどの嗜好品を交換し、記念撮影をしたそうです。いくつかの地域ではサッカーに興じた兵士たちも居ました。ボールが無かったので、空き缶や土嚢をボールの代わりにした人たちも居たそうです。ほとんどの地域では日没とともに休戦状態は解消されたそうですが、一部では元旦まで戦闘を停止していたとも言います。
クリスマスの喜び、イエスさまの御降誕の喜びは殺し合いをしている人々の心すら解して平和をもたらすのです。
私たちは全ての人が平和であるように願っています。しかし、それはとても難しいと知ってもいます。クリスマスの休戦も、全ての戦場で実現したわけではありません。事実、その翌年には兵士たちが勝手に休戦状態に入らないように、両軍で厳しい禁止命令が出されました。それでも、無残な戦場で実現したほんの一時の平和が私たちに希望を与えます。小さな平和かもしれないけれど、それは実現できるのです。限られた小さな平和かもしれないけれど、それは憎み合いや殺し合いよりも数万倍まさって大きいのです。
ニュースを見ると世界では未だ悲惨な戦いが続いています。その一方で街を歩いていると、みんながウキウキしている様子に気付きます。どれほどの人がクリスマスの意味を知っているのか、あまり期待はできないと思います。しかし、それでも良いのだと思い、私は黙って見守ります。もしそんな中の一人が「なぜこんなにウキウキしてしまうのだろう、なぜこんなに嬉しいのだろう」と疑問に思った時、私たちは沈黙を破って答えるのです。
「イエスさまがお生まれになったから。救い主が私たちと共に居られるからですよ」と。そして、世界に対して声を上げるのです。「一つになって、この喜びを分かち合いましょう」と。