2023年12月3日
イザヤ書 32:1-10
「主は来られる」
随分と日が短くなってきました。5時頃には既に闇が迫っています。このような季節だからこそ、光の存在が際立つとも言えます。今年も教会はイエスさまのお生まれを祝うため、御降誕を待つために身を飾りました。クランツの最初の蝋燭に灯りが点りました。クリスマスが近付くと、多くの人がウキウキとします。キリスト者ではない人までが喜んでクリスマスを迎えようとする姿を、私は悪いものだとは思いません。御降誕を喜ばしい出来事だと受け取ってくれるならば、それは福音が心に届くきっかけにもなり得ると考えるからです。しかし、商業主義については少し複雑な気持ちを持たずには居られません。御降誕を、欲望を満たす手段としてもらいたくないからです。今の時代、クリスマスを迎えようとする気持ちにはいくつかの種類があるように感じます。同じ出来事を前にして、心が分かたれているように感じるのです。
イザヤの時代にも人々の心は分かれてしまっていました。今日の預言が語られたのは、ユダヤの人々がバビロンに連れ去られた後の時代です。故郷を遠く離れてバビロンで暮らすようになったユダヤの人々は、少しずつ故郷を忘れ始めていました。それは仕方の無いことなのだろうと思います。紀元前597年に始まった捕囚は60年間に渡って続きました。20年で一つの世代が交代すると考えれば3回、30年で考えても2回の世代交代を経たわけですから、ユダヤの人々がエルサレムを故郷だとは思えなくなってしまったとしても当然であろうと思います。
ユダヤの人々の心に起きた変化は、それだけではありませんでした。彼らの心から信仰が失われようとしていました。かつて彼らの祖先は欲望の故に信仰から離れてしまいましたが、今の彼らが信仰から離れてしまいつつある理由は少し違います。バビロンで暮らす彼らは周囲からの圧力に曝されていました。形を持った圧力もあれば、形を持たない圧力もありました。
形を持った圧力とは、バビロニアの神を拝む人々から向けられる蔑みの目であり、改宗を進める力であったでしょう。「お前たちは負けた。お前たちの神はお前たちを助けられなかったではないか。そんな無力な神ではなく、我々の神をこそ拝むべきだ。」と言う圧力がユダヤの民の上にのしかかっていました。
形を持たない圧力とは、バビロニア人との交流において生じる自然な心の動きです。捕囚の民として連れて来られたユダヤの民とバビロニア人との間には、自然と交流が始まります。自分たちの群れの中だけで生活を完結させるわけにはいかないからです。そうすると心と心が触れ合う機会もあるでしょう。あるいは恋に落ちて結婚する男女も出てきます。そのようにして少しずつユダヤの民はバビロンの町に溶け込み始めました。そして、無意識のうちに神さまを忘れ、バビロニアの習俗、信仰に取り込まれていく人々が現れたのです。
預言者イザヤを通して神さまは、この人々を何とか励まそうとしました。
ユダヤの民はまどろみの中でうつらうつらしているようなものです。眠気に負けてしまうと自分たちが何者であったのかを忘れてしまいます。神さまは声を掛けられました。起き上がれ、目を覚ませ。神さまは既にご自分の民を救い出す決意をなさっていました。ユダヤの民が、かつて祖先が神さまを離れた罪の深さを、捕囚による苦しみによって充分に良く理解したので、これ以上自らを責め、苦しむ必要は無いと判断されたのです。もう罰を受ける必要は無いのです。これからは過去を振り払って立ち上がり、自分自身を取り戻す段階に入ったのです。
では、どのようにして自分自身を取り戻せるでしょうか。バビロニアに戦を挑み、自分の力によって神の民としての自信を取り戻しましょうか。神さまはそのような手段を否定なさいました。自分自身を贖うために対価を支払う必要は無いと諭されます。神さま御自身が御力を振るって、この民を買い戻されると宣言されます。
今、バビロンの人々は神さまの聖名を口にする時、嘲りのニュアンスを含んで呼んでいます。神の民はそれに反論できずに居ますが、バビロンの人々の嘲る思いが強ければ強いほど、神の民が救われる時にはその聖名はより強い畏敬の念を持って呼ばれるようになります。そして、ユダヤの人々が救われる時、彼らを救った神さまの力強さが際立ちます。
今の時代、人は自分たちを超越する者の存在を随分と軽んじるようになっています。「宗教とか信仰とか言うものは、自分の力では生きられない弱い人がすがるものであって、『まともな人』には必要が無い。それどころか宗教は弱い人を騙す社会的な悪ですらある」と考える人が増えています。弱い人を騙す宗教があるのは事実ですから、それについては私も強い憤りを感じています。では「自分の力では生きられない弱い人がすがる」という考え方についてはどうでしょう。これについて、私もその通りだと思います。しかし、大前提があります。人は皆弱いのです。
宗教や信仰を否定する人たちが頼るのは自分自身の力でしょう。その力とは、ある場面では心の強さでしょうし、別の場面では世に対して振るい得る力でもあるでしょう。それこそ物理的な腕力かもしれませんし、発言力や影響力、あるいは経済力も力と言えますが、全ての人がそれらを備えているわけではありませんし、それらを持てない弱い者であっても立って歩かなければなりません。自分の力で立てない者であっても、歩かなければならないのです。その弱さは一時的なものかもしれませんし、生まれつき持っている弱さかもしれません。弱い者を助ける誰か近くに居てくれれば良いですが、周りに誰も居ない時だってあります。そんな時、どうすれば良いのでしょうか。歩くのを諦めて踏み潰されれば良いのでしょうか。神さまは歩ける人にも、歩けない人にも、いつでも「見よ、私はここにいる」と呼び掛けてくださいます。御手を伸べてくださいます。その御腕に支えられて私たちは歩くのです。このような関り方は人間には不可能です。24時間誰かのために生きられる人間など居ようはずが無いのです。
イザヤは、ペルシャの王キュロスが神さまによって選ばれ、神の民を解放するとの預言をしています。後にこの預言はまさに成就し、キュロスによってバビロニアは滅ぼされました。バビロンの城に無血入城したキュロスは方々から捕囚として連れて来られていた諸々の民族に対して信仰の自由と故郷への帰還を許しました。
ではキュロスが救い主であったかと言うと、そうではありません。彼は単に政策として信仰の自由を認めただけでした。その方が諸民族を統治しやすいと考えたからです。キュロスによって解放されたユダヤの人々は喜んでエルサレムに帰ったでしょうか。残念ながら、民の中には敢えて荒れ野を超えてエルサレムに帰還し、都を復興したいと思わなかった人々も多く居て、対立する意見を持つ者の間で争いが起きてました。この結果を見ると、キュロスもまた世の力の一つでしかなかったと思わされます。神さまは彼を通して力を用いられたに過ぎないのです。
人間には到底できないような関り方をもって私たちに救いと解放と一致を実現してくださる方が居られます。その方こそ神の御子、私たちの主イエスさまです。主がどのような関り方をしてくださるのかは福音書を読めば明らかです。主はあらゆる人々との間に立ち、分断を一致へと導き、弱い者を救ってくださる方です。興味深いことに12節を見ますとイザヤは神さまを「イスラエルの神」と呼んでいます。さらに4節ではアッシリアの名を出しています。一方で、2節では民の名に代わる呼び名としてエルサレムという言葉を用いています。これらの言葉は、かつて南北に分かたれた神の民は、導かれて一つとなる将来を予感させています。イエスさまが振るわれる御力は世の力とは全く質が違うのです。分かたれた民をも一つとする不思議な強さをイエスさまは持っておられるのです。この御力に私たちは頼るのです。頼れるのです。それこそが信じる者に与えられる力です。自分の弱さを知るものであればこそ、この力の強さに気付けるのです。だから私たちはこの方が全ての人のそばに居てくださるのだ、救い主がお生まれになったのだと世に伝えるのです。
商業主義は人々がこの世の力、人間の力に頼って生きている姿を、私たちの目に最も身近でありありと見せます。御子の御降誕をどのように理解し、迎えるかという姿勢において、この世と私たちとの間には溝があります。私たちはこの世の力に対抗しようとは思いません。これらの人々の得る喜びを否定しません。ただ、私たちは人の本質、人の弱さと、神さまの本質、御力の強さ、なにより御子の与えてくださった御救いを世に対して歌うのです。世にはそこここに様々な溝が存在します。主が溝を埋め、分けられている人々との間に一致を実現してくださるよう願って、私たちは祈るのです。