2023年12月31日
マタイによる福音書 2:1-12
「博士たちの贈り物」
福音書記者マタイはイエスさまのお生まれになった時期を、ヘロデ王の時代であると記録しています。それも特にヘロデ王の晩年であっただろうことが、2章15節から見て取れます。ユダヤ古代誌にはヘロデ王が亡くなる少し前に月蝕があったとの記録がありますが、ユダヤでは実際に紀元前4年の3月12日から13日の間に月蝕が観測されました。このことから、イエスさまのお生まれはイエスさまのお生まれは紀元前6年から4年の間であっただろうと考えられています。ヘロデ王の晩年、彼の家庭は不和の時代であったと言われています。ヘロデは二番目の妻との間に設けた二人の息子を後継者候補と考えて、ローマに留学させて教育を受けさせていましたが、この二人の息子はヘロデを明確に嫌っていました。そこで、離縁した最初の妻が産んだ息子であるアンティパトロスを呼び寄せてライバル的な位置に据え、二人の息子を暗に脅しましたが、これは明らかに逆効果になってしまいました。その上、アンティパトロスが策略を用いてライバルである二人の息子を陥れるなどし、ヘロデの家庭は一言で言って平和の対極にありました。お互いに疑いの目を向け合うような家庭だったのです。
王の位を巡って家庭内が治まらず、自分の健康にも翳りが見え始めた時期に、外国から博士、占星術の学者たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこに居られますか。」と問うたのですから、ヘロデとしては不安にならないわけがありません。いったん学者たちを待たせておいて、祭司長や律法学者たちを集めて、東の国の博士たちの言葉を分析させます。
王からの諮問を受けた祭司長、律法学者らはミカ書を引いて、救い主である新しい王はユダヤのベツレヘムで生まれると報告しました。この報告を受けたヘロデは博士たちをベツレヘムに送り出します。博士たちは東の国で見た星の導きに従って旅を続け、ついにイエスさまの眠る馬小屋へとたどり着きました。
彼らは馬小屋に眠るイエスさまを拝み、三つの宝を捧げます。一つ目は黄金。これは王位の象徴です。ほとんどの金属は磨いてもしばらくすると化学変化を起こして色が変わってしまいます。鉄や銅であれば酸素と結び付いて錆びてしまいますし、銀であれば硫黄と結び付いて黒く変色してしまいます。これに対して金は極めて安定した物質で、ほとんどの物質と反応しないため、変質・変色することが基本的にはありません。このことから、イエスさまこそ永遠に変わることなく王であるという意味を持っています。
二つ目は乳香。これは祈りの象徴です。聖書において、かぐわしい香りは祈りの象徴とされています。出エジプト記を見ますと、会見の幕屋では香を焚くように命じられています。また詩編では祈りを香に例えています。香りと祈りには強い結び付きがあるのです。そして私たちは神さま以外の何物にも祈りを捧げません。このことから、捧げられた乳香はイエスさまが神であることを表しています。
三つ目は没薬です。これは死の象徴です。没薬は死体の防腐剤として用いられていました。胃薬として使われるケースもあったようですし、旧約聖書では良い香りを放つ物として扱われていますが、福音書においてはイエスさまの葬りの場面でのみ登場しています。
これら三つの宝物は、単に祝いの品として幼子イエスに捧げられたわけではありません。これらは言葉によらない信仰告白なのです。これらの捧げものを通して博士らは、この赤子こそ王であり、また祈りを捧げられるべき神であり、人々の罪を背負って死んでくださる方であると告白しているのです。
博士たちは星の導きによってイエスさまの眠る馬小屋までたどり着きましたが、不思議なことに旅の最初から最後まで一貫して導いたわけではありませんでした。エルサレムに到着した彼らがヘロデたちに新しく生まれた王の所在を訪ねている点を考えますと、エルサレムに近付いた辺りで星は姿を消したのではないかと考えられます。そして、ヘロデとの会見の後、再び夜空に表れて博士たちを導いたのです。しかし、エルサレムからベツレヘムまではほんの10kmしかありません。ほとんどゴールの手前という地点で星は一時的に姿を消してしまったのです。
星が姿を消した理由を私はエルサレムに住んでいた人々、とりわけヘロデを始めとする支配者層の視線に求めます。彼らは混迷の中にあって天を仰いで祈る時の大切さを忘れていたのではないかと考えます。もしも彼らが空を見ていたならば、彼らも博士たちを導いた星を簡単に見付けられたはずです。彼らの心が沈み、目を下にしか向けていなかったから、神さまは博士たちがエルサレムに近付いたあたりで星を隠し、博士たちの口から救い主がお生まれになるという良い知らせを伝えさせられたのではないかと考えます。
もし、この時にヘロデたちが博士たちと共にイエスさまを馬小屋に訪ねたならば、彼らは王宮には無い何かを、絢爛豪華でありながら悪意と疑いの渦巻く王宮には無い何かを見出したはずです。イエスさまは訪ねて来た人々を誰彼なく、暖かく迎え入れられたはずです。そこには干し草と飼い葉桶の他には何もなかったでしょう。しかし、そこには安らぎがありました。やさしさがありました。
私は残念でなりません。ヘロデのような人にこそ、イエスさまの与えてくださるぬくもりと安らぎを味わってもらいたかったと思うのです。彼とその家族にこそ、イエスさまに近付き、心を開いて祈りを捧げる必要があったはずなのです。不和の中にある家族が共に馬小屋を訪れ、イエスさまに救いを求めたならば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。しかし、それは実現しませんでした。これもまた神さまの御計画の内にあったのだと納得せざるを得ませんが、救われ難いヘロデと彼の家族の悲しみ、苦しみを残念に思えばこそ、私たちは主の御前に出て捧げる祈りの大切さを知るのです。そしてヘロデと私たちとの違いを改めて知るのです。
2023年は平和な年ではありませんでした。世界は未だ混迷の中にあります。私たちの身近なところにも、もしかすると解決の難しい問題が残されているかもしれません。拭い難い悲しみがあるかもしれません。その時、目を下にしか向けられなかったとしても、そのような私たちのために、天の導きを仰ぎ見られない私たちのために神さまは導く者を遣わしてくださいます。導く者たちは私たちに先立って、イエスさまこそ救い主であると告白します。私たちはこの人たちに倣って、馬小屋を訪れ、そこに眠る平和の主に、あなたこそ私たちの救い主であると告白し、胸の内を打ち明けます。悩みを抱える者同士が共に膝をついて御前に静まり、救いを求めて祈る時、神さまはこの祈りを聞いてくださいます。危機の時にこそ、苦難の時にこそ、不和の時にこそ、共に捧げる祈りが力を発揮します。私たちの手には黄金はありません。乳香も没薬もありません。しかし、私たちは私たちの持つ最も良いものをお捧げできます。それこそ祈りなのです。