降誕節第9主日礼拝説教 表見聖牧師(三・一教会)

2023年2月19日

ルカによる福音書 9:10-17

「分かち合い」」

今日は、湘北地区の交換講壇ということで、秦野教会に来させて頂きました。秦野教会の皆さまにおいては、交換講壇を快くお引き受けくださいましたことに心より感謝いたします。

私は5年前に神学校を卒業した後、相模原市にあります三・一教会に赴任いたしました。三・一教会では毎年3月頃に「黙想ウオーキング」というハイキングを教会行事として行っております。子どもたちや教会員の方と一緒に山を登るのですが、秦野の大野山、弘法山、高松山など一緒に登ったことがあります。なぜ、黙想ウオーキングかと言いますと、昼食までの登る道中は、休憩する時に道端で詩篇を読みながら、自然の中での散策を味わい、自然と対話しながら黙想しながら歩くために黙想ウオーキングと言っておりますが、もちろん、お昼ご飯を食べた後は、しゃべりながら、散策しますので、一日中黙想するということではありませんが、今日秦野に来る時に、秦野での山登りのことを思い出しながら来させて頂きました。

さて、新約聖書では「神の国」という言葉がよく出てきます。今日の箇所でも、11節に「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り」とあります。「神の国」と言ったら、皆さんはどのようなイメージを想像するでしょうか?人それぞれ抱くイメージがあると思います。

「神の国」というと、あの世のあの世界、天国など、思い浮かべてみたりもしますが、当時のユダヤ人は、「神の国」と言えば、お祝いの宴を想像したようです。それは、旧約聖書の預言者イザヤが、イザヤ書25章6節「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」と語った預言の影響もあったようです。ですから、祝いの宴が神の国のイメージです。祝宴と言いますと、皆が食卓を囲みあって一緒に食べているだけではなく、一緒に笑い、喜びを分かち合っている姿も想像できます。それは、今日の箇所、五千人の共食や、イエスが人々と共に食卓を囲んでいる姿とも共通しています。

共に食卓を囲むと言えば、皆さんの教会では愛さん会をしていらっしゃるでしょうか。勿論、コロナ禍で中々一緒にご飯を食べるということが制限されたこの3年間ではありますが、三・一教会ではコロナ前には毎週の礼拝後に愛さん会を行なっていました。今月から私たちの教会では月第3日曜日に愛さん会を再び行うことにしましたが、同じく韓国の教会でも一緒にご飯を食べることが大切にされています。韓国の教会では、必ず教会には大きな厨房があって、毎週の礼拝後、また様々な会合のたびに、食事を共にするのだそうです。その食べる、一緒に食べるということは、礼拝共同体である教会にとって、大切な一部分になっている、そのように言ってもいいかもしれません。そして韓国では「平和」とは「お米を人々の口に均等に分け合うこと」という考え方があります。そんな韓国の人たちの姿勢をよくに表している詩が韓国の詩人、金芝河(キム・ジハ)の「飯は天」です。このような詩です。

飯は天です
天を独りでは支えられぬように
飯は互いに分かち合って食べるもの
飯は天です
天の星をともに
見るように
飯はみんなで一緒に食べるもの
飯は天です
飯が口に入るとき
天を体に迎えます
飯は天です
ああ 飯は
みんながたがいに分かち、食べるもの

詩人は「飯は天である」と言います。韓国の教会において共にご飯を食べることは「天を体に迎えること」、神の国を味わい、神の国を先取りすることでした。天を見上げる共同体である教会において、ご飯を分かち合って食べることによって、人と人とが共に生きる世界が拡がっていく、そのような情景が浮かび上がってきます。では五千人の共食は一体何を意味しているのでしょうか。

イエスは人々に話をしているうちに、日も傾き、夕飯の時になってきました。弟子たちは言います。「群衆を解散させてください、、、わたしたちはこんな人里離れたところにいるのです。」弟子たちが群衆を解散させようとしたのには、集まった多くの人々に与えるほどの食べ物がないというのは勿論ですが、それ以上に、権力者に目をつけられたくない、という思いもあったと考えられます。というのも、今日の箇所の少し前に、9章7節から、ヘロデ王がイエスについてのことを心配している様子が描かれています。世間で噂されているイエスについて、ガリラヤ領主ヘロデ(アンティパス)の耳にもさまざまな噂が聞こえてきました。「ヨハネが死者の中からよみがえったのだ」と。巷ではイエスをヨハネと重ね合わせた人もいました。ヨハネを殺したのは当のヘロデ(アンティパス)です。ここで描かれるヘロデとはイエスの誕生の時、ベツレヘムの幼児を皆殺しにしたヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・アンティパスで、ある意味、ヘロデ大王の冷酷さや残忍さ、権力への執着をそのまま受け継いだような人物だったようです。歴史学者ヨセフスは、彼の父であるヘロデ大王について「ユダヤ古代誌」でこのように記しています。「ヘロデは集会を禁じただけでなく、一緒に歩いたり、あるいは一緒に食べたりすることも禁じ、また人々がしているすべてのことを見張った。町の中や路上にはどこにも、一緒に会っている人々を監視する者がいた。また彼の政府の習わしに従うことを頑くなに拒否した人々は皆、あらゆる方法で迫害された」。息子のヘロデ(アンティパス)は、強権政治を推し進めた父の、忠実な後継者だったのでしょう。ですので、弟子たちが気をもんで群衆を解散させようとしたという見方もできます。

ここで注目したいのが「群衆」という言葉の使い方です。11節では「群衆はそのことを知ってイエスの後を追いかけた」とあります。12節でも「群衆を解散させてください」とあります。原典ギリシア語では「群衆」とはオクロスと言いますが、辞書では「群衆、集団」という意味の他に、「ごたごた、やっかい」と説明されています。このオクロスという言葉は、主に権力者の側から、人々の群れ、集団を見て言う言葉、あるいは第三者的に人々の群れをさして言う言葉であって、そこには「うるさい集団」というニュアンスが含まれています。弟子たちも、若干、この人々をやっかいに感じ、煩わしく思っているので、最初は「群衆を解散させてください」と言います。ところが、この弟子たちにイエスは食事の世話を命じます。「人々」に食べさせなさい、と。するとその直後、弟子たちは言うのです。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かない限り」(13節)と。「このすべての人々」の「人々」という言葉、これはギリシア語ではラオスとなります。ラオスと言えば東南アジアの国の名前ですが、同じ発音です。

「人々」と訳されている「ラオス」という言葉は一般的に「民衆」と訳されます。「オクロス」が権力者から見た「人々」を指す言葉であるのに対して、「ラオス」は、民衆自身が自分たちの仲間や集まりをさして言う言葉です。そこには仲間意識や連帯感が含まれています。言い換えれば、同胞という言葉がむしろ適切かもしれません。弟子たちにとって、やっかいな群衆が、共に食べる同胞になっていく、神の国の実現のしるしとしての食事にあずかる民を指します。それは、イエスと共に食事を食べるもの、それは、イエスと共に歩む民衆、民となるわけです。なぜ、食卓を囲む人々が群衆・オクロスから民衆・ラオスへと言葉が変化しているのでしょうか。ただ一緒に食べるだけだったら、ルカはオクロスとラオスの二つの言葉を使いわけなくてもいいはずです。

イエスによって、座りなさいと言われて、人々は座りました。イエスの後について話を聞こうとして、多くの人がイエスの後についてきましたが、一緒に行動していた人たちは、実は、隣の人のことをよく知らなかったはずです。イエスによって、グループになって座らされたのはいいけれども、人里離れた場所であるために、食べ物は近くにはありません。弟子たちの手元にある食べ物は、事実わずかな2匹の魚と5つのパンだけでした。しかし、たとえ限られたものであっても、各々が手元にあったものを互いに差し出し、共に分かち合うならば、そこに奇跡をおきます。同じ場所に座り、互いがお互いの顔を見ながら、手元にあったものを差し出せば、他者に無関心ではなく、他者のことをも気に掛ける配慮が生まれます。

ルカが指す民衆・ラオス、それは互いが、自分だけがイエスに癒されるために付き従おうとした人や、自分だけがイエスにもっと教えてもらいたいと願っていた群衆が、同じ食卓を通して、互いが相手のことを知り、互いが違うもの同士であるのを知りながら、他者と食事を分かち合ったことを示しています。それは、互いが異なる価値観であっても、互いが異なる民族であっても、食卓という同じテーブルを囲み分かち合いを行う中で、私たちが互いを理解し、互いを尊重しながら、神の国である平和を築いていくことができるというメッセージでもあります。 

イエスが語る神の国とは、あの世、遠いところの出来事ではなく、ルカ福音書17章20-21節には「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と、イエスは語ります。この地上に、今という現実世界の中で、人と人との間に神の国が始まっている、その神の国とはあなたたちの間にあるのだ、私とあなたとの間から平和が作り出されるのだ、と。私たちが、相手を尊重するとき、相手を理解するとき、他者と愛を分かち合うとき、そこから神の国・平和は築かれていくのだ、とイエスは語っていると思うのです。

私たちも互いを理解し、互いを尊重すること、そして、愛を分かち合う中から神の国・平和を作り出していきたいと願います。

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