2023年2月26日
ルカによる福音書 4:1-13
「荒れ野でのこころみ」」
今日、イエスさまは悪魔からの誘惑をお受けになりました。40日に及ぶ断食の末に飢えを覚えられたイエスさまに対して、神の御子であるというご自身の地位を用いて人間的な欲求を満たしてみてはどうかと誘惑したのです。その誘惑に対してイエスさまは、申命記に記された聖句を用いて拒絶なさいました。イエスさまと悪魔の間に起こった3つの問答は、いったいどのような意味合いを持っていたのでしょうか。
イエスさまがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられると、天から聖霊が鳩のように下ってイエスさまの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。イエスさまが神の御子であることが明らかにされました。
聖霊に満たされたイエスさまはヨルダン川から荒れ野へと移られます。ここでイエスさまは40日の間、断食をなさいました。モーセがシナイ山において十戒を受けた際に四十日四十夜の間、飲まず食わずで神の契約を石に彫り付けた出来事を思わせます。
また、イスラエルの民は40年もの間、飢えや渇きに悩まされながら荒れ野を彷徨いましたが、この旅によって彼らは唯一の神さまに対する信仰、つまり神さまとの繋がりを固く、強く確かめ、神の民となったのでした。
イエスさまの40日の断食の後、悪魔が現れてイエスさまを試みます。イエスさまは飢えを覚えておられるのを知っていたので、「お前が神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうか」と唆します。悪魔はイエスさまの「神の子」としての自覚につけ入って挑発しようとしています。ここで悪魔は神の子としての立場を、食べ物への欲求という個人的な問題を解決するために用いてみてはどうかと誘惑しています。
イエスさまは後に乏しいパンを5000人以上の人に分け与えるという奇跡を行われましたから、石をパンに変えることも不可能ではなかったでしょう。もし誰か飢えている人を目の前に居て、この人に食べさせるためであったならば、イエスさまも奇跡を行われたかもしれません。しかし、ここで問われているのはイエスさまご自身の飢えです。
イエスさまは悪魔の言葉に対して「人はパンだけで生きるものではない」と、申命記8章3節の御言葉を引用して退けられました。イエスさまは御自分の必要を満たすために奇跡を行うことを拒否し、神さまに対する無条件の信頼と、完全な服従を示されました。
次いで悪魔はイエスさまを高いところに引き上げて世界のすべての国々を見せ、「私を拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と、自らを拝むよう誘います。ここで注目したいのは、「世界」と訳されている語が「οἰκουμένη」すなわち「人が住む世界」という意味の単語であることです。悪魔はイエスさまに人間に対する支配権を与えようと言うのです。
人に対する支配権を神さまからではなく、悪魔から受けたらどうなるでしょう。神さまから支配権を委ねられた者は、それを自分のためには用いません。神さまの御心のため、つまり支配を受ける者が神さまの御心に沿って、恵みの内に生きられるようになるために導く。それが、神さまから支配権を受けた者の力の使い方です。
後にイエスさまは神さまからこの支配権を神の子の資格において受けられ、人の罪を赦し、人を救うために用いられました。悪霊に憑りつかれた男から悪霊を退け、中風の人の罪を赦して床を担がせ、ローマの兵士の病を癒されました。
これに対して、悪魔から支配権を得た者はそれをどのように用いるでしょうか。悪魔は自分を拝むように要求しています。悪魔という偶像を拝むように要求しています。偶像は必ずしも宗教的な外見をしているとは限りませんし、目に見える物として私たちの前に現れるとも限りません。
偶像は人の心に度々発生します。肉の欲も偶像となり得ますし、思いや信念もまた偶像となり得ます。これらの偶像に支配されてしまった者は、自分の見たい側面だけを見て、つまり物事の見せる様々な様子の中から自分の思いや信念を強化するような側面だけを見て、そうでない側面を見ないようにさせたりします。正義感が偶像化してしまうことすらあるのです。
第二の誘惑に対してイエスさまは「主なるあなたの神を拝み、神にのみ仕えよ」と、やはり申命記の第6章13節にある聖句を用いて反論なさいました。
この箇所は元々、豊かな生活を与えられるように見えても、異教徒の神に近付いてはならない。ただ自分たちをエジプトから導き出した神さまだけを唯一の主として日々告白するように戒める言葉で、カナンに定着したイスラエルの民に対して発せられた警告でした。
バアルを始めとする土着の神々、定住民の神々は農耕による豊かさを与えるかのように見えましたが、エジプトで苦しめられていたイスラエルの民を救い出したのは誰であったのかを忘れてはならないという警告の御言葉をイエスさまは用いられました。
ここでイエスさまは御自身のために民を支配することを拒否し、神さまの御支配を行きわたらせるために力を用いるのだと宣言なさいました。
最後に悪魔はイエスさまを神殿の屋根にお連れし、そこから飛び降りるように要求します。ここでもやはり「神の子なら」と、イエスさまのお立場につけ入ろうとしています。しかも、ここまでイエスさまは2度にわたって聖書からの引用を用いて悪魔の要求を拒絶なさいましたので、同じように聖書の御言葉を用いて自らの要求を正当化しようとしています。ここでは、神さまへの全き信頼を述べている詩編の第91編を悪用しています。
この誘惑に対してイエスさまは「主なるあなたの神を試みてはならない」と、申命記の第6章16節を用いて退けられました。この箇所は、かつてイスラエルの民が荒れ野の旅の中で渇きに苦しめられた時の出来事を指しています。
シンの荒れ野を出てレフィディムに着いたモーセ達一行でしたが、そこには飲み水がありませんでした。このため人々は「水を与えよ」とモーセに詰め寄ります。モーセは「神さまを試してはならない」となだめようとするのですが、人々はかえって「なぜ、我々をエジプトから連れ出したのか。子どもや家畜までも渇きで殺すためか」と言ってモーセと激しく争いました。
神さまはモーセに杖で岩を打つように命じられました。すると岩から水がほとばしり出て、人々の喉を潤しました。この土地にモーセは「試し」という意味の「マサ」と、「争い」という意味の「メリバ」という名前を付けました。
苦難の中にあっても、神さまが私たちのそばに居てくださっているかどうかを確かめようと試してはならないのです。
人間の果たすべき努力や役割を故意に放棄して「神さまの御心ならば大丈夫」などと嘯くのは、神さまを試みる行為であると思います。人は自分自身を良く吟味し、また他者が持つ様々な側面を無視することなく見詰めて、自分の果たし得る働きを充分に果たすように努めなければ、たちまち悪魔につけ込まれて、ある時には誰かが傷付いたり、誰かが罪に落ちてしまったり、大切な何かが損なわれたりするのです。その結果は悲しみです。人が悲しむ様子をご覧になった神さまは、どう思われるでしょうか。
私たちは自分の内に作り上げてしまいがちな固定観念という偶像に支配されてはならないのです。常に自分の外に可能性を見出して、より良い道を、より平和な道を探り続けなければならないのです。「これ以外には無い」などというセリフは私たちには許されていないのです。
今日、イエスさまは悪魔を退けられました。悪魔は時が来るまではイエスさまを離れています。しかしそれは、イエスさまに直接手を出さなくなったというだけで、イエスさまは宣教の旅の途中で度々悪魔と対決をなさっています。悪魔は私たちには誘惑を仕掛けて来るのです。
私たちが悪魔を退ける方法があるとすれば、それは私たちが自分たちの内に力や正義を求めるのではなく、また努力を放棄するのでもなく、より良い道をより広く求め続けることの中にあるのだと思います。そのためにこそ、私たちは謙虚であらねばならないのです。
主の御受難への道のりを覚える時期となりました。最期まで従順であった主の道のりを、私たちもたどって、ご復活までの日々を送りたいと思います。