降誕節第7主日礼拝説教

2023年2月5日

ルカによる福音書 8:4-15

「種を蒔く人」

主は喩えを用いてお語りになりました。御言葉が人の心で育つ様子について、種まきという、農業を営む人がほとんどであった当時にあっては、誰にも身近に感じられ、分かりやすい喩えを用いて話されたのです。神の御言葉を、福音を人々の心に植えるという作業を、種まきに喩えられたのです。

「種まく人」と言った時に、ミレーの絵を思い浮かべる方が居られるのではないでしょうか。この絵では、種を入れた袋を腰に提げ、そこから取った種を右手に握り、地面に足を踏ん張って、より広い範囲に種を蒔こうと全身に力を込めている瞬間が描かれています。一本ずつ綺麗に並ぶように苗を植えていく日本の稲作と違い、ユーラシア大陸の西側で営まれていた小麦農業における種まきとは、ともすれば私たちの目には大雑把にみえるほどにダイナミックな作業でした。

そういう作業であったからこそ、蒔かれた種の中には畑の外にまで飛んで行ってしまうものもあったのです。

広く蒔かれた種は、四つの種類の土地に落ちます。ある種は道端に落ちました。畑と畑の間に取っていた道でしょう。その土地は始めから耕されていませんでした。そこを通る人々に常に踏み固められているので、雑草すら生えません。根を伸ばす隙間が無いほどに踏み固められているのです。土の下に潜り込むこともないので、芽を出すことすらできず、人に踏みつけられ、鳥についばまれてしまいます。

別のある種は、石の上にうっすらと土が乗ったような土地に落ちました。この種はすぐに芽を出しましたが、そこの土地は水の持ちが良くないので、あっという間に枯れてしまいました。

茨の茂った土地に落ちた種は、茨との競争にさらされました。しかし、人が手を加えた植物は野性の植物と比べると弱いものです。多くの実を実らせるように改良されてきた植物は、育つためにも多くの養分を必要とするのです。品種改良の過程で、か弱くなってしまうのです。茨の方がしぶとく、育ちやすいのです。育ち始めのスタートのところで出遅れた麦の種は、茨を追い越す機会を得られないまま枯れてしまいました。

どのような土地にも雑草の種は侵入します。植物が育つ条件がそろった土地では、これらの雑草も芽を出して、激しい競争を繰り広げます。もしも人間が、自分たちに有用な植物を選択的に育てようとするならば、まずこの土地に生えている雑草を抜き、少なくともしばらくは生えてこないように、その根を断ち切る必要があります。

その上で、もしも土の中に種が落ちていて麦より先に芽を出したならば、早いうちにその芽を摘んでしまわなければなりません。育つように手をかけてやる必要があるのです。そうやって手をかけて育てれば、一本の穂から100粒もの小麦を収穫することができるのです。

ここで興味深いのは、主がこの喩えを用いて語っておられる内容を、群衆には全く教えておられないという点です。

普通、喩えとは何らかの主題があって、それを理解しやすくするために語られるものです。ですから、その主題はすでに話題に上っているか、そうでなければ何について喩えを用いて話そうとしているのかを提示しなければなりません。この説教の冒頭で、私は「主は御言葉が育つ様子について、種まきに喩えて語られた」と申しまたし、聖書朗読においても11章から15節まで、つまり群衆が聞かなかった部分までを読んでいただきましたので、皆さんはこの喩えと御言葉の成長とを結び付けて理解しておられるはずです。ところが聖書を見ますと、4節から8節まで、群衆が聞いていたところまででは、一体なにを種まきによって喩えているのか、主は全くおっしゃっていません。

ですから、この喩えを聞いた人々は、この話の情景をすぐに思い浮かべることができたでしょうが、これが何を意味しているのかはさっぱり分からなかったに違いありません。聞いただけでは分からないお話なのです。弟子たちにとっても、それは同じでした。一体なんの目的でこの喩えを話されたのか。テーマが何なのかさっぱり分からなかったのです。

この箇所のテーマは、種を蒔く者が種の一粒ひとつぶに対して負っている責任と、種を蒔かれた土地が自分自身を種に相応しい者として耕す責任を負っているという、伝道における責任に関する二つの側面についてです。

主はこの例えの意味を問う弟子たちに、こうお答えになりました。

「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

一見、弟子たち以外の人々には、その御言葉の意味が分からないようにするため、隠すためであるというように思えます。しかし、この箇所の訳は「『彼らが見ても見えず、聞いても悟らない』ためである」とすべきだと考えます。つまり主は、群衆には二つの種類の人々が居るということを弟子たちに示そうと、見せようとしておられるのです。

この群衆は、これまでに主がなされた数々の御業と、語られた御言葉を、全てではないにせよ知っているはずです。だからこそ、主に会ってみたいと思って集まったのでしょう。様々な不思議をなさり、神の言葉を語られた人が、謎めいたことを言う。この時に「これはどういう意味だろう」と不思議に思い、答えを求めて主について行く人と、「なにを言っているんだか分からない」と興味を失って離れ去ってしまう人とに分かれるのではないでしょうか。

  10節で主はイザヤを引用しておられますが、ここで言う「彼ら」とは、「興味を持って来てみたものの、従うまでには至らなかった人」のことをおっしゃっているのではないかと考えます。「見るには見るがその本質を求めて見ようとしない、聞くには聞くが、その本質を求めて聞こうとしない人達がいる。その人たちには分からないように私は話すのだ。」主は私たちが積極的に求めて主の御言葉を聞くことを願っておられるのです。

そう解釈すると、11節からつづく喩えの説明は、10節の「求めて見ようとはしない人々、求めて聞こうとはしない人々」についての説明であると理解できます。

道とは、繰り返し踏みつけられて頑なになってしまった心です。御言葉の種が落ちても受け入れることができません。その種すら踏みつけられてしまい、いつの間にかその種すら取り上げられてしまう人々です。踏みつけられ続けた彼らは哀れです。

石地の者は種を受け入れるのですが、土が浅く、その種を育てるまでには至りません。種は根を張れないので、風が吹くと…つまり困難にあうと種が飛ばされてしまいます。困難に立ち向かえない彼らは哀れです。

茨の土地とは、生活のせわしさやこの世の富によって目が塞がれてしまい、この種が持つ本当の価値に気付けない人々です。誰かが愛情をもってこの土地を手入れしたならば、邪魔をする茨を取り除いたならば種は大きく育ったに違いありません。真の愛に気付けない、受けることの出来ない彼らもまた哀れです。

良い土地は、良く耕された柔らかい土を、充分な深さを持つ土を持ち、種を受け止め、根を張らせ、実を結ばせます。良い土地とは御言葉を受け止め、根付かせ、その実を結ばせる心です。

この良い土地は、放っておいて勝手にできた土地ではありません。根気よく土を起こし、必要であれば灌漑もし、去年の藁を鋤きこんで初めてできるものです。誰がそれをしてくれるのでしょうか。主ですか。確かに主は私たちに絶えず愛情を注いでくださいます。しかし私たち自身も互いにそれができるのです。そうすることが望まれているのです。

土地は、人間の目で見るような短いスパンでは分かりにくいのですが、長い目で見ますとその様子は変化を、それも大きな変化をします。何万年、何十万年というスパンで見ますと、海が持ち上げられて山となったり、草原が渓谷になったりもします。もっと短いスパンでも変化します。

教会はそれぞれが建てられた土地に注目します。例えば私が信徒時代を送った群馬では、県内の教会が、ある山に絶えず目を向けています。足尾銅山です。この山の事はほとんどの方がご存知でしょう。明治の初期に銅の産出量が飛躍的に高められ、その結果日本で初めての大規模な公害に犯されてしまった山です。

ガスや酸性雨により、近辺の山々は樹木を全く失ってしまいました。木が生えていない土地からは土が流れ出してしまいます。一帯の山々は完全な禿山になってしまいました。

しかし、1956年から本格的に森林の回復事業が行われ、根気強い努力の結果、一部の沢では土が流れてしまったところに新たな土が定着し緑が回復しつつあります。近年ではクマやシカが見られるようになったそうです。

二度と草木は生えるまいと思われていた土地にも、木が生えるのです。それが道であろうと、石地であろうと、茨の土地であろうと、そこに種を蒔き、育てることを諦める理由にはなりません。屁理屈でしかないかもしれませんが、主はそれらの土地にも種を蒔いておいでです。御手を伸ばされ、全ての土地に良い土地にもそうでない土地にも、主に付き従う者にも、離れ去る者にも等しく種を蒔かれたのです。

主がそうなさるのですから、私たちが「あれは道だ、あれは石地だ」などと、土地を裁くことは出来ないはずです。むしろ、種が育ちにくい土地だからこそ、愛情をこめて手を入れて、実る土地へと生き返らせるのです。

人の心は一つの基準で評価し、分類できるようなものではありません。ある特定の時期の状態だけでその人の心を分類することも避けるべきです。それぞれの心、それぞれの土壌に応じて必要な手当が違います。踏みつけられて固くなってしまった土地なら、柔らかくほぐしましょう。土が浅いのであれば、土を育てるところから始めましょう。茨が生えるのであれば、絶えず目を配って茨を取り除きましょう。私たちが仕事を始めたならば、必ず主が御力を添えて下さるはずです。そこで主が働かれるはずです。

そうやって、踏みつけられて固まってしまった土地を、石地を、茨のはびこる土地を豊かに実る土地へと作り変えられたならば、その時主は「あなたがたは私の期待を超えて良く働いてくれた」と喜んで下さるはずです。それは私たちには難しい仕事かもしれませんが、挑戦する価値はあるはずです。

そして、今日の御言葉は私たち自身が自分の心とどのように向き合うべきなのかという事柄にも関係しています。

私は自分が良い土地だとは言えません。種が蒔かれた時も、それから何十年も経った今も、良い土地だとは言えません。悪い土地です。それでもこうやって主と繋がっていられるのは、この悪い土地に手を入れてくださる方が居られるからです。その方と一緒に手を入れてくれる仲間が居るからです。私たちは互いのために、愛情をもって土を育て、土をほぐし、惑わす者を取り去る努力をするのです。大事な種を育てるために。実りの時まで育てるために。

主が蒔かれる種です。主によって蒔かれた種です。私たち全員が、その種を持っているのです。大切な、大切な種です。大切に、大切に育てましょう。

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