受難節第3主日礼拝説教

2023年3月12日

ルカによる福音書 9:18-27

「受難予告」」

イエスさまは弟子たちに問いかけられました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この問いから始まる問答の中でイエスさまは御自身の本質と、主に従う者が持つべき心掛けについて教えられました。

今、私たちは夜を過ごしています。少し前の時間、夕方ごろにはイエスさまは御自身を慕ってついて来る5000人もの群衆に食事を与えられました。みんなが満腹するほどのパンをイエスさまは与えてくださいましたが、ここは荒れ野ですので宿はありません。人々は食事をしたグループごとに焚火を囲んでいます。イエスさまも弟子たちと焚火の周りに座っておられます。

夜の静けさの中でイエスさまは祈っておられました。祈りを終えられると弟子たちと語らいの時間を持たれます。イエスさまは弟子たちに問われました。「あの人々はわたしのことを何者だと言っているのか」あの人々とは、食事を共にした5000人の群衆のことです。

弟子たちはパンを配っている間に人々の話す言葉を聞いていました。その中にはイエスさまを「まるで洗礼者ヨハネが生き返ったみたいだ」とか「いや、あのエリヤに違いない」「誰かは言えないが、昔の預言者が生き返ったのだ」など、様々にイエスさまを過去の人物になぞらえて誉める言葉がありました。

福音書記者ルカは文学者としても優れていると私は思います。実はこの時群衆の噂に出て来た名前は、同じ9章7節から9節でヘロデが耳にしたイエスさまについての噂と全く同じなのです。この噂を聞いたヘロデは「いったい何者だろう。耳に入ってくるこんな噂の主は。」と疑問を持ち、イエスさまへの関心を示しています。

イエスさまについて多くの人が「あれは誰だ」「あの人はどのような人だ」と問い始めていました。ヘロデの問いから「イエスさまとは何者なのか」という疑問が起こり、奇跡の物語を通して徐々に答えが示され始め、今日の箇所と、この次に記されているイエスさまの御姿が光輝く山上の変貌の箇所でイエスさまの本質が語られ、二つのクライマックスを迎えるのです。

イエスさまは群衆の間で流れている噂を確認なさましたが、それ以上のことは仰いませんでした。次いでイエスさまは「ではあなた方はわたしを何者だと言うのか」と、弟子たちの認識を問います。弟子を代表してペトロが答えます。「神のキリストです。」

群衆の噂と弟子たちの答えはまるで質が違います。群衆はイエスさまを預言者たちの再来であるとしか認識していません。神さまはこれまでもイスラエルの民に語り掛け、救ってこられました。群衆はイエスさまをこれまで繋がっていた神さまとの関係の延長線上に置いたのです。これに対して弟子たちは、イエスさまこそ決定的な救いを行うキリスト、メシアとして神さまから遣わされた方である告白したのです。

これまでには無い、画期的な出来事が今自分たちの目の前で起こりつつある。弟子たちはそれを認識したのです。

イエスさまがキリストであることは、実は既に知らされていました。ご降誕の前には荒れ野で天使たちが羊飼いたちに「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と告げました。また赤子であったイエスさまが神殿に入られた時にはメシアであるイエスさまとシメオンが引きあわされました。シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを受けていました。

天はイエスさまがキリストであると既に知らせていましたが、今日ついに人間がイエスさまを「キリストである」と告白するに至ったのです。

ペトロの告白を聞いたイエスさまは、この告白を他の人たちに聞かせてはならないと、口止めをなさいます。続けて、将来苦しみを受けると予告なさると、場の雰囲気が変わります。イエスさまはこれまで弟子たちだけに話しかけておられましたが、ここから先は集まっているすべての人たちに話されます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

イエスさまは、ご自身こそが救い主であると信じることと、信じる者はイエスさまに従うべきことを強く求められました。

ペトロは噂によってではなく、誰か別の人の考えによってではなく、自分の実感として「イエスさまこそ救い主である」と信じ、告白しました。私たちも毎週の礼拝の中で信仰を告白していますが、私たちはこれを「昔からこう言われているから、私もそのように信じる」というような姿勢ではなく、自分の思いとしてイエスさまを救い主であると告白すべきなのです。

私たちは使徒信条や日本基督教団信仰告白によって信仰を告白していますが、これを単に唱えるのではなく、その文言の一つ一つについて吟味しつつ、自分の答えを探りながら、これらの告白によって信仰を告白すべきなのです。もちろん、そう簡単に答えにたどり着けるわけではありません。

ペトロも、この時正しい認識を示しましたが、信仰がここで完成したというわけではありませんでした。御受難の時には逃げ出してしまいました。御復活の後、教会を委ねられてからも探り探り、迷いながら信仰者として成長していきました。それで良いのです。私たちもまた、繰り返し問い、その都度確かめながら自分の信仰を告白すれば、主は必ず私たちの信仰的を成長させてくださいます。

主は私たちに、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負えと命じられます。

自分を捨てるとは、決して欲望を捨てて禁欲的に生きるという意味ではありません。これは自分だけを中心に置いて世界を見てはならないという意味です。神さまとの関係の中で自分を見る時、初めて私たちは自分の本来の姿を見られるようになるのです。自分が何を望んでいるのか、どこを目指して歩いているのか、そして目的地にたどり着くための道のりを見出せるようになるのです。

手段はあくまでも目標を達成するための道具に過ぎません。でも私たちは往々にして手段に捕らわれてしまって、目標を忘れてしまいがちです。私たちが固執しがちな「正しい手段」とは、しょせん小さな私たちの思い付く範囲の中での正しさしか持っていません。もっと大きな目で見た時には、私たちの思い付く手段以外にも色々な道筋があって、それらの中には私たちが思っている以上に良い道もあるものです。

だから、自分のこだわりを捨て、大局にあって物事を見る必要があるのです。そして、それを実現させてくれるのが「イエスさまに倣う」という道筋なのです。

例えば静かにすべき場所で子どもが泣いているとしましょう。大人としてはとにかく静かにさせたくなると思いますが、「この子どもには今、泣くことでしか自分を表現する手段が無い。今、目標とすべきなのは、この子どもの気持ちを知り、苦痛や不安を取り去ること。そのためには…」などと言う風に、自分の理想をいったん置いて、まずその子を理解しようと努め、その上でその子どもにとって最も良い解決を探ることが必要になるでしょう。

そのために大人が我慢をしなければならないこともあるかもしれませんが、その子どもが背負っている苦しみや不安を取り除かれた時に笑顔を見せてくれたならば、それは何者にも勝る喜びとなるはずです。

神さまは私たちのために長く忍耐してくださいました。荒れ野で彷徨う人々の不従順を耐え忍ばれ、王たちの背きを耐え忍ばれ、それでも私たちを見捨てることなく預言者を遣わされ、お仕舞には最も大切な独り子を遣わされ、最後には私たちを赦すために御子の命をも差し出されました。そのことを思った時、私たちは子どもたちのためだけではなく、大人のためにも忍耐できる、その方の背景に思いをいたし、受け容れられるようになるのではないでしょうか。

今日の御言葉の最後は「この中に神の国を見るまでは決して死なない者が居る」と締めくくられています。この御言葉を聞くとヨハネによる福音書にも似たような御言葉があることから、福音書記者でもある使徒ヨハネを連想する方も居られると思いますが、ここで主は特定の誰かを指して仰っているわけではありません。

私たちがイエスさまの御姿に倣い、御心を行う時、そこに神さまの御国が実現する。イエスさまの歩まれた御跡に従った時、私たちは生きている間に神さまの御国、全ての人が平安の中に招かれる、平和に過ごせる、そのような時や場所を見られるのです。

できることならば全ての時間、全ての場所においてこの神の国が実現することを私たちは願います。

神の国の実現を私たちから始めましょう。

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