2023年3月19日
ルカによる福音書 9:28-36
「山上の変貌」」
本日の御言葉は、先週読まれました箇所から一週間後の出来事です。イエスさまは弟子たちの中から特にペトロとヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山に登られました。主は時折、祈るために山に登られました。山は特別な場所だったのです。もちろん私たちはどのようなところでも祈る事ができますが、山に私たちの心を日常から離れさせ、特別な時間を過ごさせる力があるように感じるのは日本人も同じではないでしょうか。イエスさまは三人の弟子たちから少し離れたところで祈っておられます。弟子たちもそれぞれに祈っていたのですが、私と同じで、祈り始めてもすぐに眠くなってしまう性質だったようです。祈り続けるイエスさま。うつらうつらと船を漕ぐ弟子たち。しばらくすると、弟子たちはイエスさまの様子がおかしいことに気付きます。何やら顔つきが変わったように思えます。服までが真っ白に輝きはじめました。
白という色は重要な意味を持つ色です。教会の暦、教会暦において、その時期の特徴を示すために用いられる典礼色にも、白が含まれています。ここでは、神の栄光と、無垢、罪の無さがイエスさまの御衣の色によって示されました。その意味するところは、この方こそ、神の御子であるということです。
まばゆさに三人の弟子たちは目もくらむ思いでしょう。しかし、光を透かしてイエスさまの様子を見ていると、その光の中にはイエスさまの他に二人の人が居て、イエスさまと話し合っているではありませんか。その二人とは、モーセとエリヤでした。
モーセは神の召しを受けてファラオと対決し、イスラエルの人々を、奴隷として囚われていたエジプトから導き出した人物であり、シナイの山中で神から十戒、つまり律法を授けられ、神とイスラエルとの契約を結んだ人物です。
エリヤは、モーセの時代からうんと下って、イスラエルが宗教的にもモラルの点からも堕落し腐敗しきっていた時代に、神に立ち返ることの正しさを訴えた人物です。神を捨て、バアルという異民族の神を拝んでいたイスラエルに対し、自分達をエジプトから救い出した神に立ち返ることを訴え、そのためにバアルの預言者と直接対決をし、不正を働いた王に対して「あなたのしたことは誤りである」と、神の怒りを、神の声を直接に語った人物でした。
この二人にはもう一つの共通点があります。それは、二人とも山で神と出会うという経験をしているという点です。
モーセは四十日四十夜の間シナイの山で過ごし、神の語る言葉を聞き、律法を授けられました。エリヤは四十日四十夜の間歩いた後にホレブの山に登り、そこで神の言葉を聞きました。ここではシナイとホレブという二つの名前が出ていますが、これらの名前は実は同じ一つの山を指しています。そしてそれは、神の山でした。ただし、ここで大切なのは彼らが山に登ったということではありません。彼らが神と出会い、親しく御言葉を聞かされたということが大切なのです。
イエスさまはこの二人と話しをしておられました。ここでイエスさまがモーセ、エリヤとともに語っているということは、主イエスの語られる言葉が律法や預言と等しく、神の言葉であるということを示していますが、それだけではありません。彼らの話題は、イエスさまがエルサレムで遂げようとしておられる御最期についてなのです。
この最期という言葉はルカに特有の言葉で、マタイ、マルコの並行箇所には使われていません。そして、原典では“ἔξοδος”という言葉が使われています。この言葉は最期を意味すると同時に、出発をも意味する言葉です。さらに、新約の民にとって“ἔξοδος”という言葉は、出エジプトを意味する言葉でもあります。モーセとエリヤは、イエスさまの御最期が、十字架の上での死が、出エジプトと同じであると言っているのです。
モーセの時代、イスラエルの民をエジプトに捉えていたのはファラオでした。今わたしたちを捉えているのはなんでしょう。生活の煩わしさでしょうか。見通すことのできない将来への不安でしょうか。こういうことは、私たちの不安や苦しみの表層に存在しているものだと思います。私たちの心の底にこそ、私たちを根源的な意味で捉えて離さない何かがあるのです。
それは、様々な悩みや苦しみに対して、自分は一人で立ち向かわなければならないのではないかという、孤独感なのではないかと考えます。本当はいつでも主が共に居てくださるのに、悩みの中にある時には自分が一人で置き去りにされているように感じる。自分の弱さと一人で向き合わなければならない。その不安が私たちを捉えているのではないでしょうか。
イエスさまの御最期は、十字架の出来事はこのような苦しみから根本的なところで私たちを解放します。そのことを、モーセは、エリヤは、そしてイエスさまは“ἔξοδος”という、たった一つの単語で言い表されたのです。
この三人の会話は、尊い尊い会話だったでしょう。ペトロ達はその意味するところが分かったでしょうか。あまりにも尊くて分からなかったかもしれません。でも、それがとても素晴らしいことだということは分かりました。そして、それを地上に長く残したいと願ったのです。だから、ここに居る三人のために仮小屋を建てて、長く留まってもらいたいと思ったのです。しかし、それはそこに三人を、特にイエスさまを留まらせる、閉じ込めることにもなってしまうのです。それは神さまの望まれることではありませんでした。
ペトロが話している最中に、一叢の雲が現れてイエスさまたちを包んでしまいました。
旧約聖書において、神さまが姿を表されるとき、雲や煙があたりに立ち込めたという記述が多くあります。神さまが人に直接的に関与される時に、雲が現れます。モーセがシナイの山に登った時にも雲が現れましたし、そもそも荒野を旅するイスラエルを導いたのは雲の柱でした。臨在の幕屋に神さまが居られるときは、幕屋を雲が覆いましたし、イザヤが召し出されたときには煙が、エゼキエルが召し出されたときにはやはり雲が巻き起こりました。
ペトロたちの目の前に神さまがおいでになったのです。そして神さまはペトロたちに直接話しかけられます。
「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」
この声を聞いた弟子たちは、いったい誰が話しかけているのかと、あたりを見回しますが、そこには主イエス以外には誰も居ません。
さきほど主イエスは眩く輝く御姿を、ご自身の本当の姿を私たちに示し、ご自身が神の子であるということを明らかにされました。そして今度は神さまが主イエスをご自身の御子であると明らかにされました。そして更に教えてくださいます。
「これに聞け」
私たちは主イエスの御言葉に聞くのです。主の御言葉とは何でしょうか。それは石に刻まれた言葉とは違います。異民族に持ち去られてしまうような箱に収めたり、壊されてしまうような神殿の、建物の奥に隠したりすることができるようなものではないのです。生きた言葉、生きて私たちの胸に刻まれる言葉なのです。また、エリヤを通して語られたような、神の怒りを告げる預言でもありません。「神を愛しなさい、そして人を愛しなさい」という愛の言葉であり、私たちの罪の赦しを告げる救いの言葉なのです。
雲が晴れたとき、そこにはもう、エリヤもモーセも居らず、主イエスだけが私たちと共に居られます。預言や律法が消え去ってしまったとしても、愛の言葉は、主イエスは決して私たちから去ることなく、永遠に一緒に居てくださるのです。
弟子たちは自分たちが見た光景を誰にも話しませんでした。なぜでしょうか。
モーセには、跡を継ぐ者がいました。ヨシュアです。エリヤにも、エリシャという跡継ぎがいました。モーセとエリヤは四十日四十夜を、神さまの御言葉を受けるという大切な事のために費やしました。イエスさまは御復活の後、四十日を弟子たちに教えるために費やされました。それは、弟子たちが主イエスの御心を継いで愛を行えるようになるためにです。イエスさまにとっては、それが大切な事だったのです。そして、教会はその末にあるのです。
弟子たちは驚くべき光景を誰にも話しませんでした。それは、教会の時がまだ来ていなかったからです。教会の時は、十字架の後、御復活の後、弟子たちに聖霊が注がれる時に来るのです。そして今、その教会がここにある。私たちはその教会に今集められているのです。イエスさまの体である教会を今、私たちが作っているのです。
教会は私たちにとって、決して3人称で語られるべき存在ではありません。それは常に1人称で捉えられるべきなのです。私たち一人ひとりは教会の一部なのです。神さまは私たち全てを用いて教会を作られるのです。
ですから、今ここにいる全ての人が、いいえ、ここに居ない人も、病床にあって祈っている人も、離れたところに遣わされている人も、礼拝堂に入る事をためらっている人も、それだけではありません、この教会から出て行った人も、天に帰った人も、全ての人が居て、私たちの教会なのです。それは、仮小屋のようなその場しのぎの即席の建物ではありません。教会は絶対に揺るがない土台の上に立っているのです。
私たち一人ひとりが、教会を作っています。それぞれに賜物を与えられて、教会を作っています。みんな違う賜物を与えられています。それぞれが違う。それが良いんです。教会は私たちにとって特別な場所です。でも神さまにお仕えするということをあまり難しく考えないでください。張り詰めた糸は切れてしまいます。大切な時に力を発揮するためには緩む時間も必要なのです。
私たちの群れは特別だけれども、特別じゃない。一人ひとり、全員が大切。全員が特別。でも、神さまにお仕えするのに特別な何かが必要な訳ではありません。普通の人として、欠けを持つ人として、互いを大切にしながら、そして自分を大切にしながら、それぞれに与えられたミッションに応えてまいりましょう。