受難節第5主日礼拝説教

2023年3月26日

ルカによる福音書 20:9-19

「隅の親石」」

イエスさまはエルサレムに入城なさいました。いよいよ御受難の時、十字架に上られる時が迫っています。残された時間は多くはありません。その残り少ない時間に、イエスさまの教えの中心に触れるいくつかの出来事が起こりました。その一つが、この「ぶどう園と農夫のたとえ」です。

ぶどうは麦とは違います。極端なことを申し上げるならば、無くても生存に関わるような支障が起きるような作物ではありません。ぶどうは豊かさの象徴とも言える作物です。ぶどうがあるから、人々は単に食って繁殖をして死ぬだけの生き物としてではなく、恵みを受け、喜んで生きる者であることができるのです。

神さまは世界をぶどう園として作られました。世界の創造は私たち全てに豊かな生を送らせるためになされたのでした。しかし、一部の人間がその豊かさを独占しようとしていました。福音はユダヤ人のためにだけある。ユダヤ人の中でも、特に選ばれた者だけが神さまに愛され、恵みに与れる。そのような考え方がユダヤの社会にはびこっており、それはイエスさまにとって悩ましい事態でした。

ぶどう園の主人は皆さんお気付きの通り神さまです。農夫たちはイスラエルの民です。農夫たちは元々自分たちの土地を持っていませんでした。主人は、このままでは生きる糧を得られない彼らに労働の場を提供しました。その土地は主人によって既に整備され、ぶどうの木が植えられていました。農夫たちを雇い入れた主人は旅に出ます。これによって、農夫たちには自分たちのやりやすいように仕事をする自由が与えられました。

旅に出たからといって、主人はぶどう園への関心を失っていたわけではありません。季節が廻り、秋になると僕を送って収穫を収めさせようとします。ところが農夫たちは遣わされてきた僕を袋叩きにし、追い返してしまいました。収穫を得たとたんに欲が出て、穫れたぶどうの全てを自分たちの物にしようと企んだのです。

主人は3度にわたって僕を遣わしますが、その度ごとに僕の受ける仕打ちは段階的に酷くなっていきます。二人目は袋叩きにされたうえで侮辱され、三人目は怪我をさせられて外に放り出されてしまいました。

主人は何故、繰り返し使者を遣わしたのでしょうか。主人は農夫たちが立ち返るのを待っていたのです。元は主人の物であったぶどう園から得た収穫の中から、自分たちの分として得られた恵みを感謝し分け合う。主人は農夫たちに、そのような生き方をしてもらいたかったのです。だから、3度も働きかけたのです。それなのに農夫たちは、ついには主人が遣わした跡取り息子を殺して、土地の所有権まで奪い、恵みと愛の全てを支配しようとします。

イエスさまはイスラエルの人々があれやこれやと理由をつけて、「あなたは恵みの外に居る、あなたは罪びとだ」と排除しようとしている様子を方々で御覧になりました。

彼らは、病気の人に対しては「その病はあなたの罪によって引き起こされた」と言い、ある種の職業の人に対しては「その仕事は罪だ」と裁いて、自分たちの決めた基準に適合しない人たちを神の恵みから排除し、その一方で「自分たちは恵まれた者、神さまに愛された者」であると考えて、どっかりと座っています。神さまの愛と恵みを支配しようという試みに等しいこの行為をイエスさまは強く批判し、警告なさいました。

イスラエルの歴史を見ると、神さまは何度も働きかけられたことが分かります。イスラエルの民はそもそも、弾き出された人の群れだったはずです。彼らは何度も弾き出されてきました。カルデアに住めなくなってしまったアブラハムはウルを出発し、乳と蜜の流れる土地が与えられました。エジプトでは生きていけなくなってしまった人々はモーセに率いられ、カナンの土地に入りました。罪に落ちた結果、捕囚の民としてバビロニアに連れ去られたユダヤの民にもエルサレムへの帰還が赦されました。

これらの旅を通して、イスラエルの民には安住の土地、恵みの豊かな土地が与えられました。赦しが与えられました。何度弾き出されても、イスラエルの民は神さまの愛の中を生きていたはずなのです。それなのに、そのイスラエルの民が身内を弾き出しているのです。イエスさまはそれを批判なさるのです。その批判を快く思わない人々が今、イエスさまを殺そうとしています。

農夫たちが跡取り息子を殺したところでぶどう園の所有権は得られません。それと同じで、神の独り子を殺しても、神さまの愛を左右する力を得られるわけがありません。彼らが誰かを自分たちの群れの中から放り出しても、その人から神さまの愛を奪い取って自分の物にできるわけでもありません。

主人の跡取り息子が誰を指しているのか、最早説明しなくてもお分かりでしょう。イエスさまは御自身をぶどう園の息子になぞらえられた後、隅の親石に重ねて話を続けられます。

隅の親石と呼ばれる石は、かつて神殿を建築する際に役に立たぬ物として打ち捨てられた石です。いわば、邪魔者として弾き出された石でした。イエスさまは人々の自分勝手な期待を負わせられますが、人々はイエスさまが自分たちの期待には応えてくださらないと気付くや、イエスさまを都の外に連れ出して十字架に付けてしまいます。

さらにその石は都から出たゴミを投げ捨てる場所ともなりました。この石の上に落ちる者とは、社会に弾き出された人々です。「あなたは救いの内にはない」とレッテルを貼られた人たちです。「この石の上に落ちる人々は打ち砕かれる」とイエスさまは仰います。とても痛い目にあわされるような雰囲気がありますが、これは決して悪い意味の言葉ではありません。

「隅の親石」は詩編118編に見られる表現です。

家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

かつて大工たちが捨てたこの石は、打ち捨てられ、弾き出された者にとって喜びを告げる石となりました。その石であるイエスさまが私たちに「砕かれた心」を持つことを勧めています。疎外され、裁かれた者にこそ打ち砕かれた心が宿ります。打ち砕かれた心をもって主イエスに頼る時、救いに与れるのです。「果たして私に救いはあるのだろうか」と悩む者こそ、救いに与るのだとイエスさまは教えてくださったのです。

この石はかつて「役に立たぬもの」として捨てられました。この石を投げ捨てた人こそ、その重みに苛まれ、かえってこの石の下敷きになってしまうのではないか。そのようにならぬよう心掛けなさいとイエスさまは警告をなさるのです。

私たちの望みは誰もが神さまの恵みを受けて生きられるよう、世界が作り変えられることです。神さまから預かったぶどう園で、幸せを分け合いながら生きられる、そのような世界を私たちは望みます。私たちが驕ってしまっては、それは到底不可能です。

人々から弾き出されてしまった者こそ、その国に最も近いところに居るのだとイエスさまは教えてくださいました。私たちは私たち自身を省みる必要があると思います。ここに集う一人ひとりはきっと、何らかの形で誰かから弾き出された経験を持っていると思います。その痛みを背負っているのではないかと思います。痛みを知っているからこそ、どなたにおすがりすべきなのかを知っているはずです。そして、痛みを知っているからこそ、私たちは同じような痛みを負う人に手を伸ばしたいのです。

苦しみに満ちた道を、痛みだけを背負って生きるのではなく、また無為に時間を過ごすのではなく、豊かさを受け、それを分かち合い喜べる、満たされた人生を送りたいし、私たちの隣人にも豊かな人生を送ってもらいたいのです。

私たちは対価を支払うことなく全てを頂きました。私たちが愛する教会の交わりも、私たちが自らの功績によって得たわけではありません。全ては神さまからいただいたものです。私たちは神さまが整えてくださったところにスッポリと収まっているだけなのです。そう考えるならば、私たちはこの恵みを独り占めできません。むしろ、より多くの人と恵みを分かち合い、またぶどう園の主である神さまにの印として収穫をお捧げすることが、農夫である私たちの務めでしょう。

この教会を預かる者、このぶどう園を委ねられた者として、主の御心にかなう働きができるよう願います。

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