受難節第2主日礼拝説教

2023年3月5日

ルカによる福音書 11:14-26

「悪霊との戦い」」

主は、様々な不思議な業、力ある業をなさいましたが、今日は人に憑いた悪霊との戦いについて巻き起こった議論が主題です。ルカによる福音書には悪霊を追い出すということについての記事が、他にもいくつか見られます。例えば9章には、1人の子どもに憑りついた悪霊を弟子たちには追い出すことができなかったという記事があります。その際、イエスさまは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」とおっしゃったとあります。

10章には、72人の弟子たちが悪霊に打ち勝ったことが記されています。イエスさまに権能を授けられた72人の弟子たちがイエスさまの名によって悪霊に命じたところ、全ての悪霊がこの名の故に弟子たちに屈服したとあります。続いてイエスさまは祈られました。神さまは、イエスさまの名の何たるかを「幼子のように」無邪気に信じる者にこそ示されました。

今日はイエスさまご自身が悪霊を追い出しておられた時の出来事です。イエスさまは、ある人に憑いていた口をきけなくする悪霊を追い出されました。すると悪霊に憑りつかれていた人は口がきけなかったのに、なんと話し始めたではありませんか。その様子を見ていた人々は大変驚きました。この時、イエスさまの御業を見た人々は、これこそ神様の力がイエスさまを通して働いたゆえだと考え、イエスさまを信じる人々と、悪意でこの出来事を見る人々の二つに分かれます。

悪意で見る人々のうちの一部はこう考えました。

「あの男は悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出している。」

ベルゼブルとは、本来はバアルゼブル、つまり「崇高なるバアル」という名を持つ嵐と恵みの雨の神、時折説教でも紹介しました農耕の神ですが、新約の時代には完全に悪魔であるとまで考えられ、名前のうちの一文字を入れ替えてバアル・ゼブブ「蠅の王」とも呼ばれ、悪霊どもの首領であると考えられていました。つまり、イエスさまのなさっていることは八百長であると、悪霊の首領とグルになって、出来レースを見せているに過ぎないと考えたのです。

また別の人々は、イエスさまのなさっている業が本当に神の業であるならば、それを証明する徴を見せろと言い始めました。彼らの求める徴とは、例えば天体の動きや天変地異などの特異な現象のことです。もっとも、これはナンセンスであろうと思います。なぜならば、常人には出来ない不思議な業、つまり今まさに私たちが目の当たりに見ている、悪霊を追い出す業こそが、イエスさまの力を表す徴ではありませんか。ちなみにイエスさまはこのことに関して、29節で「ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない」と批判なさいます。

今日私たちが見るのは、イエスさまがこれらの人々の内の前者に対してなされた反論です。イエスさまは、「悪霊の頭とグルなのだ」という中傷に対して、2重の反論をなさいました。まず一つ目の反論です。

「あなたがたは自分の言っていることが矛盾しているということに気付かないのか。仮に国々のこととして想像してみなさい。国で内乱が起きたならば、その国の住民はそこに住むことができなくなるほどに荒れ果ててしまうではないか。私がしていることを、悪霊の頭と組んでの八百長、出来レースであるとあなた方は言うが、もし仮にそうだとしたら、私が追い出した悪霊たちは住処を失い、どこに行くのか。いかに頭の命令であると言えども、そのような命令に従う者があろうか。それではもはや、国としての体をなさないではないか。」

確かにその通りです。もしもそれが支配者の命令であったとしても、自分たちの生活を脅かすような命令をする支配者に従う者がどれだけ居るでしょうか。力づくで従わせられたとしても、その支配の及ばないところに逃げてしまうのではないでしょうか。そんなことが続けば国として成り立たなくなってしまうはずです。

そしてもう一つの反論。

「あなたたちの中にも悪霊を追い出している者が居るが、では彼らは一体なんの力によって悪霊を追い出しているというのか。悪霊を追い出すということが悪霊の頭の力によるのだとすれば、私と同様に悪霊を追い出しているあなたたちの仲間もまた、悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているということになるが、それでいいのか。私に対するその中傷は、そのままあなたたちの仲間に突き刺さるが、それで良いのか。」

イエスさまは凄い方だと思います。とっさに相手の言葉の矛盾を的確に見抜き、反論を展開できる人は、そうそう居ないのではないでしょうか。これで、中傷をしていた人々はぐうの音も出なくなってしまいました。

ところで、ここで疑問がわきました。イエスさまを中傷している人々の仲間には、悪霊を払う者が居たということでしたが、彼らは一体なんの力で悪霊を追い出していたのでしょうか。72人の弟子たちはイエスさまの名によって悪霊を追い出していました。しかし、イエスさまを中傷する人たちがイエスさまの名を使うということはありえません。

実はこの時代、悪霊を払う者が多く居たということが「ユダヤ古代誌」という書物に記されています。この本によりますと、これらの人々はソロモンの知恵、ダビデの息子で神様に知恵を授けられることを願った、あのソロモン王の知恵によって悪霊を追い出していたとのことです。

ただ、もしこの人たちと同じ程度のことをイエスさまがなさっていたとすれば、民衆はイエスさまの業のみをことさらに驚いたり中傷したりすることはないでしょう。「あぁ、彼も悪霊を追い出すのか」という程度の認識だったに違いありません。ところが、イエスさまの業を見た人々はとても驚き、それがさらに大きな悪霊の力ではないかと疑うほどでした。つまり、イエスさまの業は他の人たちのそれと比べて格段に強かったのです。イエスさまを中傷した人々は、その業の強さに嫉妬したのではないかと考えます。

では、なぜそれほどまでにイエスさまの業は力強かったのでしょうか。その答えを私たちは知っています。それは、イエスさまの業は神の力に由るものだったからです。

イエスさまは続けて仰います。「私の業を見た者が、それは神の力に由来すると受け止めたならば、その人は神との関係に近付いている。一歩を踏み出して、この関係の中に入りなさい。そして、私と一緒に集めなさい。」と。何を集めるかは敢えて言わずともご理解いただけるでしょう。さらに多くの人々を、神さまとの愛の関係に招くことです。これが今日、私たちに与えられた主の御言葉の中心の一つです。

そしてもう一つ大切なことが、喩えを通して命じられています。それが24節から26節に記された御言葉です。

ここに汚れた霊を追い出してもらった人が居ます。追い出された霊は、水も無ければ休む所も無い砂漠をさまよいますが、ついに元のところに帰ろうと決心します。帰ってみると、元居た家はすっかり片付けられて、前よりも居心地が良くなっていました。そこで、自分より悪い7つの霊を連れてきて入り込み、以前の状態よりも悪くしてしまうというのです。

先ほど「今日の御言葉の中心」と述べましたイエスさまのご命令は、さらに多くの人を神さまとの愛の関係に招くことでした。これを一言で言うならば、やはり「伝道」でしょう。ここで述べられたのは苦しむ人に向き合い、心の交流を持つこと、そしてその中でイエスさまの名を示すという伝道です。

であるならば、今述べました喩えは言い換えるならば、牧会に関する教えです。神様との関係に入るまでのことにばかり一所懸命であったとしても、その後、その人を大切にしなければ、その人はかえって傷付いてしまう、そのことを言っているのです。

教会で傷付いて教会を去ってしまった人が再び教会を訪れるのは、それまで神様の名を知らなかった人を招くことよりも難しいでしょう。イエスさまを受け入れた後であっても、その人を放置してはならない。それが誰であっても、それがいつであっても、どのような時であっても、その人は孤独のうちに放置されてはならないのです。誰もが大切にされなければならないのです。

苦しむ人と向き合い、イエスさまの名を告げること。これが今日の中心の一つ。イエスさまの名を受け入れた人と、同じように自分もイエスさまの名を受け入れた者として共にあり続けること。これが今日のもう一つの中心です。

この二つの大切なこと。私たちのなすべき大切なことが、私には全然できていないと思わされます。私には、それをするに足るだけの、例えば共感力や包容力といった能力が無いのではないかと思わされますが、この心配が間違っているということも、今日示されました。

先に遣わされた72人の弟子たちは、特別な能力の持ち主だったでしょうか。そうではありません。至って普通の人です。欠けのある、普通の人間です。その普通の人に、欠けのある人にイエスさまは権能をお授けになり、遣わされました。至って普通の人たちが悪霊を屈服させました。なんら特別な能力を持つわけでもない、普通の人だから、主は権能をお授けになったのではないかと考えます。であるならば私たちもまた、この72人と同様に主の御業にともに携わることができるはずです。

普通の人であればこそ、ソロモンの知恵のような、それを知る人たちの中だけに閉ざされた力によってではなく、力強い神の指によって、イエスさまがそうなさったように、神の指の力によって人々と向き合うことが出来るのです。なによりも、いかにソロモンの知恵と言えども、やはり人間の限られた知恵に過ぎないのです。神の指の力によって、主イエスの御働きに倣って人と向き合うならば、いま目の前で泣いている人と同じように、痛みに苦しんだ者として、そしていま共に痛みを分かち合うことのできる者として、その人を神さまとの関係の中に招くことができる。そして、同じように痛みに苦しんだ者として、いま共に痛みを分かち合うことのできる者として、神さまとの関係の中をその人と共に歩むことができるのです。

悲しむ人は、必ずしも声を上げて泣いているとは限りません。私たちの目には隠されたところで不安に押しつぶされている人もいるのです。その悲しみに、苦しみに気付くことは難しいかもしれません。しかし、私たちは出来る限り全ての人の居場所を教会に造り、それを守れるようにと祈るのです。人を招くということと、招かれた人を大切にするということの二つの働き、私たちの教会に主が託された働きについて、もう一度深く考え、答えを主に求めたいと願います。

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