復活節第2主日礼拝説教

2023年4月16日

ルカによる福音書 24:13-35

「エマオへの途上にて」

二人の旅人がエルサレムからの道を歩いています。彼らはイエスさまの弟子たちの中の二人です。目的地はエマオという町です。前日には律法の規定に従って過ぎ越しの食事をした彼らですが、今朝は仲間たちからの知らせで随分と驚かされました。イエスさまの御遺体が墓から消えたというのです。

その知らせを告げた女性たちはイエスさまが復活なされたと言うのですが、にわかには信じられません。この数日間に起きた数々の出来事は彼らを戸惑わせました。互いに「どう思う?」と言いあいながら歩いていますが、どうにも結論を出せません。

この二人はイエスさまの弟子たちではありましたが、ずっとイエスさまと旅をしていたわけではありません。イエスさまと旅をしていた使徒たちの多くはガリラヤの出身者ですし、33節を見ますと11人の弟子たちがこの時まだエルサレムに残っていることが分かりますから、彼らは使徒ではないと分かります。彼らはユダヤの南部に住んでいて、イエスさまの旅の最後にイエスさまと出会い、エルサレムまでついていった者たちです。

彼らは失望していました。イエスさまこそ自分たちの国をローマの支配から解放し、独立した国を築いて下さる方だと信じていたのに、その希望が潰えてしまったのです。彼らの話に、そのような言葉が混ざっていました。

そんな彼らにイエスさまが近付かれ、道連れとして歩き始められました。すぐそばにイエスさまご自身が居られるのに二人にはそれがイエスさまだとは分かりません。目が遮られていたからです。厳しい言い方をすると、彼らの目はずっと遮られていました。彼らはずっと自分たちの願望をイエスさまに投影していました。イエスさまについて旅をしていた時にも、自分たちの見たいようにイエスさまを見ていただけ、イエスさまの御業を自分たちの見たいように見ていただけ、イエスさまの御言葉を自分たちの聞きたいように聞いていただけであって、本当の意味で開かれた目を持っていたわけではありませんでした。

イエスさまに対する彼らの姿勢は信仰とは言い難いと言わざるを得ません。信じる準備が整っていない彼らには、今目の前に居られるイエスさまを認識できません。彼らは「あぁ、この人も過ぎ越し祭のためにエルサレムに滞在していた人の一人だろう」という程度にしか考えていません。

イエスさまはまず彼らが話している内容について問われました。すると二人は暗い顔を見せ、あきれたように話し始めます。「あれだけの騒ぎになったのに、あなたは何も聞いていないのか。何も気付かなかったのか。」

つい私などは「気付いていないのはお前だ。」と言いたくなりますが、イエスさまは先を促され、辛抱強く耳を傾けられます。弟子たちは話を続けます。「ナザレのイエスのことです。」

彼らはイエスさまの御業について述べ、イエスさまに期待をかけていたことを語ります。

誰でも、自分が目にしたものや聞いた話、体験した出来事などを他の人に話す時には、その人自身の解釈が混ざります。二人の話にも、彼らの解釈が混ざっていました。彼らはイエスさまを預言者であると理解していました。ペトロはイエスさまを神の子、救い主であると告白しましたが、この二人はそこまでは思っていません。

彼らが望んでいたのは、かつてモーセがファラオと対決し、神さまの御言葉によってイスラエルの民をエジプトから導き出したように、力ある自分たちを解放し、政治的にも信仰的にも独立した国を建ててくれる指導者でした。彼らはそれをイエスさまに期待していましが、イエスさまが十字架につけられて処刑されてしまったために彼らの希望は打ち砕かれてしまいました。

意気消沈していた彼らの耳に、イエスさまが復活なされたという知らせが届きます。彼らはそれをどう理解して良いのか、そもそも信じて良いものかどうかが分かりません。彼らは復活されたイエスさまを見たわけでもなければ、証拠となる何かを見付けたわけでもないからです。そんなことを二人は、それを聞いておられるのがイエスさまご本人だとは知らずに話しました。

するとイエスさまが口を開かれます。

「あなたが見て来た事柄は全て預言に当てはまっているではないか、その通りに成就したのに信じないのか」

彼らは確かにほんの短い期間しかイエスさまと一緒に歩きませんでしたが、彼らが見た出来事の数々はイエスさまを理解するには充分であったはずなのです。ただ、彼らには開かれた目が無かったからイエスさまを本当の意味で信じるにまでは至っていなかっただけなのです。自分の願望を通してではなく、聖書の御言葉を通してイエスさまを見よう、知ろうとしていたならば、イエスさまの御復活も信じられたはずなのです。

イザヤ書には「見えない人の目が開く。」「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」とあります。イエスさまは成就なさいました。詩編には「私は口を開いてたとえを語り、いにしえから隠されていたことを告げよう。」とあります。イエスさまは成就なさいました。イエスさまのなさった御業と語られた御言葉の全ては聖書によってなされていた預言の成就だったのです。そして、彼らが失望している十字架の上での死もまた預言の成就であり、ご復活も預言の成就だったのです。それをイエスさまはモーセ五書と数々の預言書から始めて聖書の全体を通して解き明かされました。

もちろん彼らはこれまでにも聖書には親しんでいましたが、それら全てを繋げて考えたり、それら全てをイエスさまの足跡と関連付けて考えたりする機会は無かったのでしょう。聖書は部分だけで読んでも今一つ理解しにくい書物ですが、全体を貫いている何かに気付けば、そこに隠されているメッセージの豊かさに気付かされる書物でもあります。

熱心に話をしながら歩いているうちに、二人の目的地であるエマオに到着しました。エマオはエルサレムから11キロほど西に行った所にある村ですから、三人は3時間ほど一緒に歩いたと考えられます。弟子たちはもっと話を聞きたいと思い、先を進もうとされるイエスさまを強いて止め、自宅に招きました。そこに彼らの内面の変化を読み取れます。彼らは自分たちの願望を通してではなく、聖書を通してイエスさまを見ようとしています。まだ自分たちの目の前に居られるのがイエスさまだとまでは気付いていませんが、彼らの目が開かれる準備が整いつつあります。イエスさまは御自分を求める彼らの家に宿られました。

食事の席に着かれた時、イエスさまはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。それは本題であれば家の主のなすべき役割でした。イエスさまはこの家に招かれたのですから、本来であれば裂かれたパンを受け取る側になるはずでしたが、ここではイエスさまが二人を招く主、食卓の主人として振舞われ、弟子たちもそれに異を唱えるわけでもなく主人の座を明け渡しています。ここでイエスさまは御自身の権威を示されました。信じる準備が整い、イエスさまを主として迎え入れた二人にパンが裂かれ、与えられます。これは聖餐の原型です。

裂かれたパンを頂いた時、彼らの目が開かれました。今こそ彼らはイエスさまの御復活を信じました。その瞬間、イエスさまの御姿は見えなくなってしまいました。二人の弟子たちを「信じる者とする」という目的を達成されたから、イエスさまは姿を消されたのです。

二人を「信じる者」とするためにイエスさまは道を共に歩まれ、聖書を語って聞かされました。二人を食卓に招くためにイエスさまは道を共に歩まれ、聖書を語って聞かされました。二人の旅のゴールは、主と共に囲む食卓だったのです。

喜びに満たされた二人は、それを他の仲間たちに知らせずには居られなくなり、今来た道を取って返し、エルサレムへと急ぎました。すると使徒たちが集まっていて、シモン・ペトロにもイエスさまが御姿を現された、つまりペトロにもイエスさまの御復活された御姿が見えるようになったと喜んでいました。二人の弟子たちの喜びは、使徒たちの喜びと融けあいました。

二人の歩みは私たち全員の歩みと重なります。見えなかった私たちの目が開かれ、イエスさまの御姿を見るようになる。イエスさまを主として自分の内にお迎えする。すると実は自分こそが招かれて、恵みに与っていると気付かされます。

今、私たちの目が完全に開かれているかと問われるならば、必ずしもそうではないとしか答えられません。それでもイエスさまは私たちの目を開こうとして、今も私たちの道連れとなり、聖書の御言葉を聞かせ、食卓に招いてくださいます。二人の弟子たちは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言い合いましたが、その熱心さを私たちも持ちたいと願います。

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